初の三谷映画。私がスオミの話を心から笑えなかったワケ。
スオミの話をしよう を観てきた。
三谷幸喜監督の映画は、評判を各所で聞きつつもこれまで観た事がなかった。
なんだか映画というか、演劇やコントを観ているようだった。
観ていてまずローコストな映画だな、と思った。舞台もほぼ家のセットだ。あとはそれこそコント番組みたいな飛行機のシーンと、ラストのステージだけ。
劇場では私含め笑いが漏れていた。もう声を出すのは問題ないと言わんばかりに爆笑が出ているシーンもあった。
◎だが、これは何の映画だ?
観終わって、まあ面白かったのだが結局これは何の映画だったのかと考えた。
だが1日経った今まだ結論が出ない。
監督のインタビューによればこれは「日常を忘れ何も考えずに楽しめる映画」なのだそうだ。
だが俺は正直言って、これを何も考えずに楽しめる映画として送り出しているなら、随分無神経だなと思った。
女性が男性の希望に則って役割を演じていたという脚本は、どうしても昨今のセクハラ問題を彷彿とさせる。
「女性の繊細な意見が欲しくてね」と発する男性上司に若手女社員が苦々しい思いをした、みたいなエピソードが熱っぽい議論をしばしば巻き起こす今、これを特になんの意図もないただのコントとして送り出すのはアンテナがなさすぎないかと僭越ながら思ってしまう。
監督が長澤まさみにカメレオン演技をさせたかったというのが核である以上、どうしようもないのだが、こういうテーマはうるさ方の暴走を抑えフェアにする為に、配役の男女を逆にするとか、何かしら配慮が必要なはずだ。
この映画の批評をネットで調べたら案の定
「有害な男らしさ」だの「押し付けられた女性の役割への痛烈な批判」だとかがヒットする。
だがこの映画のスオミは有害な男らしさを持った男とは関係を持ち劇最後ではメリットも示すのに対し、5.5の男である出版社の男、それこそ押し付けられがちな「女の役割」のように有害な男の下で不満を押し殺して甲斐甲斐しく働いている彼をスオミは「どうでもいいわ!」と吐き捨てる。
スオミは好んで有害でも男らしい男を求め、無害でも女々しい男は好まない事が表れている以上、痛烈な批判としてはどうも成立してない感じがある。
そもそも法的に言えば被害者は明らかに男性陣だ。
男らしさを持った彼らに愛された時、スオミは男を愛し返して「あげる」。だがスオミには男なんかよりもっと好きなものがある、それは「ヘルシンキ」。その事を最後のステージでスオミは高らかに歌い上げる。ヘルシンキまでの旅費や、そこでの友人との理想の暮らしの為に自分を愛した男達の稼いだ金を騙しとろうと女友達と画策していたというのがこの映画のオチだ。
監督のこんな話を何も考えずに笑えという感覚がどうにも分からない。
ギャグシーンは笑えてもこの筋書きは一体どこがコメディなのか。結婚詐欺みたいな犯罪をした女2人組が無罪放免になって自分探しの旅に出る。懲りずにまた6人目を騙しにかかりそうなところでこの映画は終わる。これのどこがハッピーエンドでどこが楽しいのか。
だが実際、何も考えずに笑えたという人も散見された。
この人の映画は俺には合わないのかもしれない。
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