災害支援ボランティア参加 記録 in輪島
はじめに
わたしは大学の授業がない金曜日と土日を使って、能登半島に行き、災害支援のボランティア活動に参加しました。今年の8月にも能登に活動しにいっていて、七尾市で被災した方のお家の片付けを手伝わせていただきました。その時お世話になった方から、輪島での避難生活の辛い話を聞いたのがきっかけでした。能登半島地震でどのような被害があったのか、きちんと知りたいと思い足を運びました。
能登までの道のり
金沢駅からバスに揺られて、輪島市に向かいました。能登半島に入って内陸の方に進み車窓をのぞくと、多くの場所で土砂崩れを起こしていました。さらに土砂崩れで崩壊した民家の様子も伺えました。半年以上もたって、土砂崩れも壊れた民家もそのままの状態で残されていたのです。
外国人旅行客で賑わう金沢駅周辺とは打って変わって、能登半島は震災の跡が強烈でした。バスが目的地に近づくごとに、心臓の脈打つ音が大きくなっていくのがわかりました。これから向かう場所で、被災地の現状を目の前に自分はしっかりと支援できるのか、被災者の方に対して失礼な行動をしてしまうのではないか、あれこれ考えて不安になっていました。
市役所の方々
2時間半経つと、ようやくボランティアの拠点となるところに到着しました。出迎えてくれた輪島市役所の方々がボランティアの事前説明をしてくれた時、その方々も被災していることに気がつきました。家が崩壊し、避難所生活を余儀なくされ仕事をしている中で、ボランティア参加者に明るく笑顔で接してくださる姿に、大変恐縮ながらぐっとくるものがありました。被災されても、仕事をすることで地元の復興に全力で挑み、地元の人々を励ましている姿に脱帽しました。そんな役所の方々の姿を見て、不安な気持ちを抑え自分のできる範囲で自分ができることを精一杯しようと決心することができました。
ボランティア活動
わたしがボランティア支援に向かったお家は、海沿いを車で走って急斜面の山を登ったところにありました。母家のすぐ横で土砂崩れが起きていました。被災者の方はまだそこで生活をされていましたが、正直危険な状態でした。被災者の方に失礼ながら「仮設住宅にはお移りにならないのですか?」と尋ねたところ、「住み慣れた場所にいたい」とおっしゃっていました。わたしはどう答えるか考えていると、被災者の方は家の中に入ってしまいました。
作業は、スコップやバケツを使って土砂を片付けていきます。急斜面な地形で広範囲に土が積み重なっている状態だったので、たった六人のボランティアで作業を進めるのは、非常に難しかったです。スコップで土を掬い、バケツに土砂を入れ、袋に詰めてトラックに乗せるのですが、たくさんの石が土の中に含まれていたので女性陣は一人で作業することはできませんでした。活動時間は午前中、午後と合わせ4時間ほどでしたが、みんなヘトヘトになるほど疲れきっていました。
振り返って
頑張ろうと意気込んでこの災害支援ボランティアに参加しましたが、被害が尋常ではない様子からあまり役に立てていなかったのではと、ボランティアから帰った今でも考えてしまいます。自分の未熟さ、無力さを感じました。一方で能登半島地震の実態を身にしみて感じることができました。半年も経って復興していない状態から、日本は災害に対処できる仕組みがあまり整っていないと思います。このボランティアを機に、自国が災害大国であることを自覚し、災害時に自分はどう行動し何を備えていなければならないか考える必要があると思いました。また能登半島を始めとする被災地は、どんな被害があったのかに注目されやすいですが、元々どんな町だったのか知ろうとすることも大切だと思います。穏やかな日々が震災で一瞬にして大切な人、ものが失われてしまった辛さを被災地、被災者と関連がない人でも思い馳せることが大切です。他人事ではなく、自分事のようにいろんな人が意識を持つことで災害支援や、復興時の問題を改善する一つの方法だと考えます。
最後に
きちんと整理しきれていませんが、ボランティアに参加したときに思ったことをそのまま書かせていただきました。もし災害ボランティア、能登半島地震、またわたしの文章について何か感じたことがありましたら、コメントに書いてくださると幸いです。
誠に勝手ながら、能登半島をはじめとする被災されたすべての方々に向けて、わたしが計り知れないような深い悲しみがあると思いますが、これからの生活の中で少しでも皆さんを癒してくれる出会いがあることを心の底から願っております。ボランティアという活動は、独善的な一面もあるため快く思わない方もたくさんいらっしゃると思います。しかし、わたしはこれからも少しでもお力になれるようにボランティア活動を頑張っていきたいと思いますし、周りの人に感じたことを伝えていきたいと思います。