「快」という言葉が持つ大きな意味
生物は快を求め、不快をさけるものである。
人間ならば、あるものに快刺激を受け続ければ好きになり快刺激を増幅し、あるものに不快刺激を受け続ければ嫌いになり不快刺激を増幅する。
人間には様々な欲求があり、それが今までの快不快の経験によって動機を形成するものである。
では「快」=幸福と言い切って良いのだろうか?
私はそうは言えないと思う。
快と不快は精神の中に、部分と全体として同時的に存在する。
だから「快」=幸福とは言い切れない。また「快」=喜び、「不快」=悲しみとも言い切れない。
なぜなら快、不快というものは部分的であり、喜び、悲しみというものは全体的だからだ。
しかし、全体的である喜び、悲しみの中にも将来という次元までは含まれていないから喜び=幸福とは言い切れない。
結論として、快、不快、喜び、悲しみが混じてメロディーのようになって、人間の精神的状態が成立つなかで、快とはその精神的適応状態の主観的側面をいうものである。
次に、快そのものの実体に戻ると、人間は社会的動物であるから、完全な適応とは個人だけでは可能でない。快の実体は個人の社会的適応にある。
私たちは、他人が喜んでいるときに喜び、他人が悲しんでいるときに悲しむ。従って、当然、他人を喜ばせようとする。
自分が「喜び」を得る為には、他人を喜ばすというのは利己的であって、人間はその目的を意識せずに他人を喜ばせている。
それは水を飲む時、身体に水を補充する目的を意識していないで水を飲むのと同じだ。
目的があっても、それを意識するとは限らない。社会生活が完全に行われているのは、人間が「持ちつ持たれつ」の生活をする時であり、共生というべき状態である。
総合的な快は愛である。愛の場合は個人の喜びは相手の喜びと統一される。
他人の不幸を喜び、他人を攻撃し、自分のことだけしか考えない人間には、そうすることが快であろう。
このような人間の快は、「適応なき快」であると考える。
社会に適応している者は自然に他人の快を考える。愛する人の快が自分の快であるのは自然的である。
つまり、快とは、自分を犠牲にする喜びを含むことを忘れてはならないし、自然的愛情と切り離されたものでないことを忘れてはならないのである。