【働く論考】仕事と労働 『労働』を忌避する所以
本項では
「多くの人(日本人)は自分が『労働をしている』と思いたくないのではないか?」
という仮説について検証する。
「働く」という言葉はキャッチーで、企業のミッションなどにもよく使われる単語である。
「働く」に楽しみを、「働く」を通じて、「働く」を変えるなどのように動詞を名詞として比較的良い意味で使われているように感じる。
ここでいう「働く」とは、前項迄に述べてきた「仕事」の意味に近そうだ。
自己実現や社会とのつながりのために行う活動で、「キラキラした」イメージがある言葉であるように感じる。
ただ、ここまで述べてきたように本来「働く」という言葉は「仕事」と「
労働」に分けることができて、同じ活動であっても両方の要素を含む場合もあるなど密接に非常に近い距離にあるが明確に異なる2つが相乗りしている状態だ。
おそらく「働く」という言葉で表現されているうちの多くの割合(ともすれば仕事の割合よりも多いのではないだろうか?)は「労働」であって「仕事」ではない。
これは転職理由の上位に「給与・待遇」が来ることからも明らかであるし、実生活の感覚からも遠くはないはずだ。
しかし、多くの社会人があなたは「労働をしていますか?仕事をしていますか?」と聞いた場合に、「私がしているのは労働です」と答える人は多くないのではないだろうか。
もしくはその言葉自体に良い意味も悪い意味も持たずに「労働者ですよね?」と聞いた場合に、快く「はい、労働者です」と答える人もあまり多くはないように感じる。
ただ、「仕事をしていますか?」という問いにはもちろんそうだと答えるだろうし、その仕事の目的はなんですか?と聞けば一定の割合の人が「お金・生きるため」と答えるのではないだろうか。
これは明確に「労働者である」ことを示しているにも関わらず、なぜ人は「労働者である」ことを認めたがらないのだろうか。
「労働者である」ことを認めない理由論考
この理由としては
・私は本来、お金のために働くような人ではない
・私は他人から強制されて労働をしているのではない
・お金のためだけに働いている人だと思われたくない
・お金のために働くのは卑しいイメージがある
・生きるために必死に働いているのはカツカツで格好良くない
などの心情が想像できる。
翻って、
・お金のために働いていない人は格好いい
・自分は本来お金に不自由なく暮らせる人間である
・お金に余裕のある状態が望ましい
などのイメージも同じように働いているのではないかと思料する。
つまりここに、
・お金を持っていることは偉い、格好いい
・お金がない状態、カツカツな状態はよくない格好悪い
という意識が根底にあるのではないか?と見ることができる。
ここで言いたいのは、この根底にある意識自体が絶対ではないことに気がつくべきだということである。
稼ぐことや生活に余裕があること自体を否定するものではないが、より多く稼いでいることやより余裕があることは比較対象ではなくそれぞれの別個の個人が生きるために必要なお金を稼ぐことや生活のためのお金が多いこと、少ないこと自体は本来全く個別の事象であって良い・悪いといった他者と比較して語るものではないということだ。
だから、自らを人との比較で考えず律することができている人ほど、本来自身のしている「働く」という行為を自分の中で「仕事」であるか「労働」なのかを切り分けることができており、堂々と「お金のための労働です」と言えるはずだ、ということになる。
まとめ
つまりこの項で言いたいのは、「労働しています」と言えないのは単にその言葉が持つイメージが良くないからだよねという話ではなく、
自身の捉え方として他人が決めた比較対象や基準を用いて他者との比較におけるお金の多寡で自分の価値を決めてしまっているという根底の認識の誤謬があるのではないか?ということである。
「他人と比較しない」などは近年よく見る論調であるが、その表れとして自らの「働く」が「労働」であるならばそれを堂々と「生きるための労働である」と言えているかどうかが肝要であると言える。