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国語よ、この国から出て行け!
こんにちは。りなおです。
仕事柄、入試問題も含めいろんな文章に触れることが多く、時々今までの自分の考えをガラッと変えるものと出会うことがあります。
今回はそのお話。
知識<好き<楽しい
オリンピックや世界大会などで、「意気込みは?」とインタビュアーに聞かれた選手の「とにかく楽しみたいです。」という答えが嫌いだ。いや、嫌いだった。楽しむのではなく、真剣に向き合うのが国代表の選手としての姿勢なのではないかと思っていたからだ。孔子の言葉に出会うまでは。
子曰、「知之者不如好之者、好之者不如楽之者。」
これは孔子の『論語』である。「不如」という「比較」の句形があるので、例文として出会った人もいるかもしれない。訳はこうだ。
孔子先生は言われた。「学習することにおいて、その知識があるということは、学習することが好きな者には及ばない。学習することが好きな者は、学習を楽しんでいる者には及ばない。」
なるほど。これは学習だけではなく、さまざまな物事にも言えることではないか。前述したスポーツも例外ではない。
孔子のこの言葉によると、そのスポーツを理解したという知識<そのスポーツが好きという気持ち<そのスポーツを実際に楽しむということだ。大事な大会の前に「とにかく楽しみたい」とそう思えるのは、きっとここまでの過程でまずルールなどを知識として持ち、そのスポーツの魅力にひかれ、実際に自分でプレイするにあたってさまざまな苦労や壁にぶつかりながらも大舞台でも「楽しみたい」と思えるほど練習量をこなしてきたということだ。その過程で自信をつけて大会に臨む人にしか言えない言葉なのだと気づかされた。と同時に、自分の視野の狭さと固定概念にも気づかされることとなった。
結局「楽しい」が最強!
勉強でも同じだ。仕事柄、これを意識しておくべきかもしれない。「楽しい」と思わせる仕掛けがあるとよい。この「楽しい」という仕掛けは、生徒自身を動かすもの、何かゲーム性があるものは簡単だろう。実際にいろんな形のアクティブラーニング(主にジグソー法)をやってきた。しかし、教員の語りで、生徒自身が何かに気づき「もっともっと知りたい」と思える楽しさを与えたい。私たち教員が考える種を蒔き、生徒自身ががそれを育むのだ。その種が発芽し花を咲かせ、実がなればこんなにうれしいことはない。しかしこれは難しいかもしれない。生徒の心に引っかかる何かを残さないといけないからだ。
国語よ、この国から出て行け
さて、文化祭などの行事でクラスTシャツを作るのだが、最近の主流は背面に個人名ではなく個人にまつわる一言をプリントするようだ。(例えば「○○高校の地下アイドル」「女神降臨」など)そこで、こんな一言を目にした。
国語よ、この国から出て行け
国語の先生をしている私に対しての言葉ではないのだが、心が苦しかった。なぜならその生徒は、昨年も今年も私が「国語」を教えている。その生徒は国語の「楽しさ」を受け止めてくれなかったということか。私の教え方の問題か、その子の許容の問題か。いや、もはやそんなことはどうでもよい。その子はそう思ったということだ。逆に、その一言をみんなが目にするTシャツによくプリントしようと思ったなとその勇気に感心さえする。それを読んで嫌な気持ちをする人がいるという想像ができなかったのねと悲しくもなる。(だから、国語苦手なままなのよと納得もする)
「楽しさ」を伝える技は
前述のように生徒自身を動かしゲーム性のある授業をしたり、教員の語りによって気づきが生まれる授業を目指したりと試行錯誤は続くが、何より効果的なのは教員自身が生徒の目を見て楽しそうに授業をすることではないか。そういえば過去にこんなことを言われたことがあったのを思い出した。
「先生が楽しそうに語ってくれるので『源氏物語』が好きになりました。」と。私は単純にうれしかった。結局は、そういうことなのだ。受け止め方は人それぞれなので気にしない。私はただ、そうやって授業を作っていきたい。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
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