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シアターホームステイ #3



3日目の朝 

3日目の朝ごはんもタルガヨーだった。タルガヨーはこの日も美味しくて種があった。

この日は予約していたレンタカーに乗って、糸満市に向かうつもりだったので、

タルガヨー4粒くらいをまとめて口に入れて、少し早めに出発をした。



おもろまちにあるレンタカー店はジュエリーの免税店やホテルと同居した大型商業施設の中にあった。この建物と道路を挟んだ真向かいには、慶良間チージ(シュガーローフ)と呼ばれる場所がある。

慶良間チージ(シュガーローフ)


前日に訪れた 慶良間チージ(シュガーローフ) 

慶良間チージ(シュガーローフ) 
沖縄戦の激戦地。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。慶良間チージでの攻防は、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、米軍が制圧した。

現在は配水塔と展望台があるその場所には、案内板があり解説を読みながら当時の写真を見ることができるようになっていて、僕は2日目の昼、崇元寺に向かう前に訪れた。慶良間チージの展望台から見えるものは洋服の青山、TSUTAYA、いくつかのマンションとビル、そして当該の大型商業施設で、最近更新された街という印象だった。後から考えてみれば、この地区は、戦後、土地収用令と「銃剣とブルドーザー」によって強制接収され、一度米軍の住宅街となった場所だった。それが1987年の全面返還後、再び開発が行われ新都心地区となった。2日目に訪れたおきみゅーも同地区に作られている。新都心地区のように強制接収が行われた土地は沖縄県のいたる場所にあり、依然、その全てが返還されていない。

展望台からの景色
展望台のそばに設置された案内板



エンジンをかけると同時にトヨタヤリスはFMを拾いローカルCMが流れた。
ローカルCMはどこで聞いても、声の大きさや元気のよさが印象的な気がする、沖縄でもそれは同じで訪問者である僕は少し元気になった。



ひめゆりの塔 に向かう


糸満市は那覇市から見てもさらに南にある。沖縄南部の街だ。

那覇空港までの道は混雑していたが、それ以降はスムーズに車を走らせることができた。

出発から40分後、ヤリスは目的地の「ひめゆり平和記念資料館」に到着した。

全く想定していなかったが、周辺に飲食店が密集していることに驚いた。ひめゆりの名を冠した食堂や、洋風なカフェ、お土産販売店がちょっとしたドライブインのようになっていて、資料館を訪れる人向けに駐車場も開放されていた。ロータリーはなく、交通量の多い道路沿いに入口があり、そこで花を販売している人に声をかけられる。

花を販売する人 「献花用にいかがですか?」

        「1つください」

花を販売する人 「好きなのを選んでください」

        「…じゃあ、これをください(お金を払う)」

花を販売する人 「ありがとう」


花を持って15mほど歩いて、献花台に花を置く。

献花台のすぐ奥に柵があり、柵越しに大きな空洞を見ることができた。

空洞は地面にあり、その空洞のそばには慰霊碑が建てられていた。

奧に見えるのが献花台


ひめゆりの塔
ひめゆり学徒隊の最後の地の一つである伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑。
同壕は沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、
1945年6月19日朝、米軍の攻撃により、多くの生徒や教師が亡くなった。



ひめゆり平和祈念資料館

黙祷をして、ひめゆり平和祈念資料館に入る。

展示は、ひめゆりと呼ばれた「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の学校生活の写真に始まり、時系列で戦争によってどのように日常が変わっていったのか。

2校の生徒・教師240名は看護要員として動員され どのような環境を強いられたのか。ご本人の証言や、絵、壕から見つかった道具とともに、想像できない恐ろしく辛いできごとが、事実として解説される時間が続く。事実として理解した上でより考えようとしてみると、身体が強く緊張する。例えば「そこに自分がいたら」と思い始めただけで、受け止めるのに、心が間に合わないというか、気持ちの距離をとって展示を見ないと自分が変になりそうだった。さっき見たカフェや食堂のことを無理に考えて落ち着きを保とうとする時間もあった。自分が閲覧者として情報に触れて行ってきた想像が、絶対に事実に敵わないことを体感することになった。僕は具体的な言及を避け、寓話性を持たせることで観劇体験から自然と問題意識や想像が生まれるような作劇を心掛けてきた。想像は重要だと思っている。しかし事実に向き合うことも重要だ。レポートとして躊躇しながら書いた文字ではあるが、先述の「恐ろしく辛いできごと」という文字から得られる想像は、あの場で僕が体感した道具と証言と絵の語りに比べて全く無意味だと思う。

展示の最後には沖縄戦で亡くなられた生徒・教師、ひとりひとりの名前と顔写真が壁に掲示されている。そして同じ空間に献花台の前から見た伊原第三外科壕の模型がある。壕の模型の中からは地上を見上げることができた。模型から得たあの想像の景色について人は考える必要がある。



再びヤリスに乗った僕は、アトリエ銘苅ベースへ戻った。

当山さんの計らいで、演劇人コンクールに参加する作品を制作していた「演劇ユニット多々ら」さんの稽古場を見学させてもらえることになったからだった。





稽古場見学  をさせてもらう


僕がお邪魔した時には稽古がすでに行われていて、会ったこともない訪問者に対して笑顔で制作の山本さんが椅子を持って来てくださり、それに座って稽古を見ていた。
時期としては本番の4週間前にもかかわらず、見知らぬ訪問者を受け入れてくださったこと、稽古がめちゃくちゃ面白いことに感謝しながら椅子に座っていた。
演目は『楽屋ー流れ去るものはやがてなつかしきー』。後日行われた、演劇人コンクールでの上演では奨励賞を授賞されたとのこと。おめでとうございます。

みなさんと撮った写真

稽古後には座組の方との交流の機会もいただいた。

この滞在期間、3日目までレポートにあらわす中で、全体的な会話の少なさから、少しでも会話した人や動く歩道さえも登場人物にしてセリフのように書いていたが、この交流会では沖縄、名古屋の方言について、劇団やユニットの活動モデルについてなど様々な話題でお話をさせていただき、とてもありがたい時間だったし楽しかった。
みなさんに感謝を伝えながら別れ、初日に当山さんに教えていただいた大綱挽祭りの会場に向かった。祭りはすでに終わっていたが、帰りのゆいレールの車内で綱を持っている人を発見した。降車後、あの人がどう幸せになるのかを考えながら、僕はドクターペッパーを飲み、宿泊させてもらっているアトリエ銘苅ベースの2階に戻った。

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