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シアターホームステイ #2


2日目 朝ごはんにタルガヨーを食べる

朝起きて今いる場所が名古屋じゃないとワクワクして、名古屋だとホッとする。それは那覇でも同じだった。朝ごはんは昨晩、沖縄のスーパーマーケットユニオンで購入した「タルガヨー」という「カーブチー」と「オートー」の交配種とされる柑橘を食べた。どの柑橘にも漂う左のホームラン打者感。タルガヨーは「あなたは誰?」という意味で、「こんなに美味しいミカン誰が作ったの?」というニュアンスから名付けられた説があるそう。たしかに酸味がしっかりありながらそれを忘れさせる甘さが後味として残る美味しいミカンだった。

歩きがてら見つけた花①
歩きがてら見つけた花②
公園に貼られた外来種への注意喚起

前日はあまり街中を歩いていなかったため、街並みを見ようと徒歩で沖縄県立美術館・博物館に向かうことにした。道路沿いに植えられている街路樹や咲いている花には存在感があって、何枚も写真を撮った。街中には緑が多く存在しており名古屋や東京では見かけない植物ばかりだった。一方で公園の街路樹には外来種の爬虫類への注意を喚起するポスターが貼られていて、ここが国境に近いことを感じた。


沖縄県立美術館・博物館(おきみゅー)を巡る


沖縄県立博物館・美術館、通称おきみゅーは独特な形をした建物だった。
無数の穴のような網のような石灰岩のような外見は周りの建物とはまるで違う雰囲気を放っている。ただ中に入ってみると、高圧的な外見に反して居心地のいいきれいなスペースが広がっていた。

おきみゅー外観①
おきみゅー外観②


お目当ての常設展では沖縄の歴史(自然史、考古、民俗、工芸)の展示を楽しむことができ、それぞれの展示が沖縄の通史の展示に繋がっているようなレイアウトになっていた。通史の展示はとくに興味深く、琉球王国には中国からの使者を楽しませるために踊り奉行とよばれる役職があったこと、薩摩に攻められた際の琉球王国の混乱があらわされた書物、廃藩置県によって沖縄県にいかにして大和言葉が強いられたのかなど。多くの知らない資料や物品が所蔵されていた。特に印象に残ったのは琉球王国の時代から首里城の正殿に懸けられていた「万国津梁の鐘」の実物展示だ。中国との冊封体制と並行して日本とも交易を行いながら独立を保った琉球王国の指針や気概をあらわす漢文が刻まれた象徴的な大鐘にもかかわらず、その文字の数センチとなりに戦時中についた弾痕が残っている。数時間見ただけだが、誇りと傷が一緒に展示されていると感じた。交互にやってくる沖縄への外圧と奮闘、その影響を受けながら人の営みから生まれる文化を垣間見ることができた。見れば見るほど自分が今いる場所の捉え方が変わった。建物を出る際に、レポートのことがよぎり、「どれもとても見ごたえがあり面白かった」という言葉が煩雑にも頭に浮かんだが、歴史を見て、面白いという感想は若干間違っているような気がした。どの歴史も現在から距離はあるものの確実に地続きで実在している。現在から過去をみるときの自分が、思わず過去を優位的に俯瞰してしまっていることに気付けるのは自分自身しかいないと思う。とにかく、おきみゅーで時間を忘れ展示に没頭したことで、この日のスケジュールが押してしまった。

万国津梁の鐘



おきみゅーを離れた僕は次のスポットである崇元寺に向かってペダルを立って漕いでいた。
スケジュールの帳尻を合わせるべく、徒歩で街を歩くという今朝立てたばかりの予定を変更し、ゆいレールおもろまち駅でレンタル自転車を入手したからだった。バイクシェアサービスは多くの地域で利用することができる交通手段だが携帯の電波やスーパーの精肉青果のようにそれぞれの地域ごとに特定のサービスがはばをきかせていることが多い。横浜ではドコモバイクシェア。福岡ならチャリチャリ。名古屋なら双方が拮抗している。そんな中で那覇は珍しくハローサイクリングのポート(出発・返却地)が最も多かった。





崇元寺 で感じる


石門
内側から見た石門


ハローサイクリングに乗って15分弱が経過したところで崇元寺に着いた。
崇元寺はもともと、琉球王国の国廟とされ歴代の琉球国王を祀っていた寺だが、現在は石門だけが残っている。寺の正廟などは戦災で焼失してしまったためだ。崇元寺の石門は3つのアーチ門が連なったような形をしていてアーチをくぐると、かつて境内だった場所に入ることになる。そこには大きなガジュマルの木があった。この木を見て何も感じない人はいないだろうと思わされるような立派なガジュマル。大きな幹からは枝が何本も上に向かって伸びていて、その枝にびっしりと葉が茂っている。枝と葉の隙間から空が見えて、そこに光が差し込むと見たこともない木のシルエットがあらわれる。
風でも吹こうものなら、目の前のガジュマルが何かしたのではないかと思えるような場の力がはたらいていた。
ガジュマルの奥はかつて崇元寺の正廟があった場所で、今は公園になっている。公園には失われた正廟の模型と、発掘調査によって見つかった遺構が展示されていた。公園には他に遊具などはなくただただ広い空地がそこにあった。だった場所。とはいえ、国廟だった場所に入っていることの恐れ多さがあった。

ガジュマルの木
公園にある模型



再び、ハローサイクリングに乗って足を動かしていると、街中では、
クラクションの音が聞こえた。この次の日、レンタカーを運転したときにも混雑状況からか交差点の反対車線などから他人事としてクラクションを聞くことが多いように感じたので、後日、「当山さんに那覇の人ってクラクションをよく鳴らしませんか?」と聞くことになる。

当山さん  「那覇の人は滅多にクラクションを鳴らしませんよ」

われながら、「名古屋走り」の街からやってきといて、
何聞いてんだって話だなと思った。



不屈館 を訪れる

次にハローサイクリングは海辺にやってきた。
波の上と呼ばれる地域のやや北の住宅街にある「不屈館」が目的地だった。
「不屈館」は主に米施政権下であった27年間にかかわりをもつ、資料館で、
沖縄の祖国復帰を目指した政治家瀬長亀次郎氏についての展示をメインとして、沖縄の戦後史(米軍統治下の出来事)について触れられる場所だ。館内にはスクラップされた多くの新聞記事が掲示されていて写真や記事を通して当時の集会の様子、当時の人々が受け取った衝撃を見ることができた。ネット記事とは比べ物にならないほど新聞は読みやすく、滞在前のリサーチの末、知りたかったことや疑問が解消される時間が続いた。当時の沖縄米兵による多くの事件や、基地周辺の事故の多さと不条理さが、単なる情報としてでもこちらの推測としてでもなくそのときの人々の怒りとして自分に沈着した。ここで知った脅威が、4日目に県中部へ当山さんに連れて行ってもらった際、一見平穏な街に見え隠れして、記事の写真とその後の街を二層で見ることができた。



しかし不屈館もすべてをみることはできなかった。
ハローサイクリングの頑張りを時間は無視し、閉館時間がやってきた。
その後、英語話者のファミリーにビーチはどこにある?と聞かれ、
GoogleMapですぐ近くにある波の上ビーチを知った。
ファミリーをビーチに道案内した後、
当該のビーチを見下ろすように跨がる橋の上を自転車で漕ぎながら、
まだ沈まなそうな夕日と、光が反射した海のきれいな景色を見て、
安直な26歳は騙されたように充実した気持ちになってしまった滞在2日目。

波の上のビーチ
まだ沈まなそうな夕日


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