ivy 幽泳プログラム 「クラスルーム」の歌詞解釈

第一連
「助けて」と求めることさえできない絶望の中に追いやられ、灯りが合っても歩くことさえできない。自己と現実との乖離の中で感じる絶望。キルケゴール「死に至る病」に出てくる「自己自身にであろうとする絶望」に近しい絶望?

第二連
望んでいた自己と自分の置かれた立場である現実に感じる絶望の中で、理想の自分を何とか見ようとするが、理想の自分などいないことに気付く。
「理想の自分=現実の自分との連続体」であり、望んでいた自己とは自ら叶える者であるということの自認。誰かに叶えてもらえる者じゃない。ただ、その認知さえ認めたくない状況に置かれている。

第三連
深い傷=挫折?
挫折の経験を不甲斐ない恥として捉え、人にそれを吐露できないでいる。そうやって、自分を隠すことは、自己開示の否定。他人とのつながりの中で得られるはずの経験を捨て去ることと同意義。主体は他者の中に自己を見出し、理想とはある他者の中に主体の自己が存在していることと同意義だと考えられる。したがって、他者とのつながりによってのみ、理想の自分を形成できる。そのため、他者との経験を捨てることは第二連の自己実現の連続性の棄却に通ずる。

第四連
理想の自分を追い求めて、想像に耽り、暴走(自傷や現実逃避?)を行ってもそれは現状維持でしかない。つまり、「アイツ=理想の自己」が実現することはない。
現実逃避の中に居る自己自身を同情しても、意味はない。理想の実現するための行為を行うために「遠くにいってよ」と拒絶する。

第五連
朝まで踊る=およそ相手は理想の自己自身=理想を叶えるための行為
僕=自己実現できないで現実逃避に耽っている自己自身
自己実現できないでいることを誰も責めていない。ゆえに、自分自身で行えることを追求して、自らの理想を実現する世界を自分自身の手で作り出す。
君と二人=君は理想の自分、僕は現状の自分
現状の自分と理想の自分の両方を肯定して、上手く生きれたら良いのに

結論
 何者でもない若者は、何者かになろうとするが、理想の自分と現在の自分との差異に苛まれ、絶望(自己自身であろうとする絶望)する。この絶望から逃れるため現実逃避に走り、人との関わり合いを拒絶し、現在の自分を孤独に肯定しようとする。
しかし、現状を肯定しても「何者でもない状況」を維持するだけであり、理想の自分に近づくことはできない。理想に近づくためには、自らの足りない点を自覚しながら、他者と手を取り合って努力する必要がある。そのためには、現実逃避に耽っている自分を遠ざけなければならない。
一方で、現実逃避に耽っている自分を完全に否定する必要は(理想と現在の連続性という観点から)無い。そして、何者かになろうと、理想を追い求めることは誰にも責められる行為ではない。ゆえに理想の自分を捉え、現状の何者でもない自分を肯定し、自己実現の道を着実に、自分なりの速度で、一歩一歩確実に歩めば良い。

そんな弱ささえも肯定してくれる素敵な曲。

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