米英金融資本の支配下にあった日本が東アジア侵略を進めた
1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。7月26日に発表されたポツダム宣言は日本に無条件降伏を要求している。
連合国で無条件降伏という話が出てきたのは1943年1月にカサブランカで行われた米英仏の首脳、つまりフランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、シャルル・ド・ゴールの会談においてだ。その直前、ソ連へ攻め込んでいたドイツ軍はスターリングラードで降伏している。
ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する奇襲攻撃を開始。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。
1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
こうした中、1941年12月に日本軍はマレー半島と真珠湾を奇襲攻撃してイギリスだけでなくアメリカとも戦争を始める。ドイツの勝利を予想して米英と戦争を始めたのかもしれないが、そうした展開にはならなかった。ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年1月にモスクワで降伏、同年8月にスターリングラード市内へ突入したのだ。
ヨーロッパでドイツがソ連に負けたことを受け、英米仏が開いたカサブランカ会談で無条件降伏が打ち出された。これはドイツや日本の降伏を遅らせることが目的だったと言われている。日本はともかく、ドイツがソ連に負けたというイメージを消し去り、イギリスやアメリカに負けたのだという演出をするには時間が必要だったのだろう。
勿論、日本が戦争を始めたのは1941年12月よりはるか前のことだ。本ブログでは明治維新をイギリスによる東アジア侵略戦略の一環だと考えている。
明治体制になってからイギリスやアメリカの外交官は台湾や大陸を侵略するように焚きつけて軍事技術を提供、その一方で米英金融資本は戦費を融資している。そして明治政府は琉球を併合し、台湾へ派兵、江華島事件を引き起こし、日清戦争、日露戦争、シベリア派兵へと突き進んだ。シベリア派兵はロシアで起こった十月革命への干渉だ。
十月革命は第1次世界大戦と深い関係がある。1914年6月にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺され、翌月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるのだが、ロシア支配層は戦争に反対する地主階級と戦争に賛成する産業資本家との間で対立が生じていた。
戦争反対派の中心人物は皇后アレクサンドラと大地主を後ろ盾にするグリゴリー・ラスプーチン、戦争賛成派の中心は有力貴族でイギリス支配層と深い関係にあるフェリックス・ユスポフだ。
ロシアとドイツを戦わせたいイギリスにとって目障りな存在だったラスプーチンは1914年6月に腹部を刺され、重傷を負って入院。その間にロシアは宣戦布告していたが、その後も対立は続く。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺された。暗殺者はフェリックス・ユスポフだとされている。
ユスポフは1887年3月にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれているが、その11年前、その宮殿でイギリス人男子が生まれていた。ユスポフ家に雇われていた家庭教師の息子、スティーブン・アリーだ。この人物は後にイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーになる。のちにフェリックスはオックスフォード大学へ留学するが、そこで親密な関係になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになる。
ロシアで支配層の内紛が展開されている最中、1916年にイギリス政府はMI6のチームをロシアへ派遣したが、その中心メンバーはアリーとレイナーにほかならない。このチームがフェリックスと接触していることは運転手の日誌で明らかになっている。またラスプーチンの殺害に使われた銃弾を発射できるピストルを持っていたのはレイナーだけで、真の暗殺者はレイナーではないかと考える人もいる。
そして1917年3月にロシアでは「二月革命」が引き起こされ、資本家が実権を握った。そのほか、カデット、エスエル、メンシェビキも革命グループに含まれていたが、ボルシェビキは参加していない。その指導者は亡命中か刑務所の中だった。革命で成立した臨時政府は戦争を継続する。
それに対し、両面作戦を避けたいドイツ政府は即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目を付ける。そこでドイツ政府はボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運び、「十月革命」につながった。こうした経緯があるため、ソ連とドイツはアドルフ・ヒトラーが台頭するまで関係は良好だったのである。そして日本はイギリスやフランスの要請で十月革命に干渉、1925年までソ連領内に居座ったわけだ。
その間、1923年9月1日に東京周辺を巨大地震が襲った。被災者数は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回ると言われている。損害総額は55億から100億円に達していたという。
この資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大銀行JPモルガンに頼った。ロスチャイルド金融資本からスピンオフした金融機関だ。その当時、JPモルガンと最も緊密な関係にあった日本人は井上準之助だと言われている。関東大震災を切っ掛けにして日本の政治経済はJPモルガンから大きな影響を受けるようになった。
地震の当日、総理大臣は不在。山本権兵衛内閣が成立するのは9月2日のことだ。その内閣で井上は大蔵大臣に就任、1924年1月までその職にあった。1927年5月から28年6月までは日本銀行の総裁、浜口雄幸内閣時代の29年7月から31年12月まで、再び大蔵大臣をそれぞれ務めている。
9月1日の夕方になると社会主義者や朝鮮人をターゲットにした流言蜚語が飛び交いはじめ、2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電して戒厳令も施行された。
こうした雰囲気が社会に蔓延、数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに社会主義者やアナーキストが虐殺されているが、そうした犠牲者のひとりがアナーキストの大杉栄だ。彼は妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉だった甘粕正彦に殺されたのである。地震当時、東京に住んでいた人の話では、焼き殺された朝鮮人もいたようだ。実行者は日本の庶民にほかならない。
そうした中、JPモルガンは日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、浜口雄幸内閣は1930年1月に要求通りに実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。
こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。浜口は1930年11月に東京駅で狙撃され、31年8月に死亡し、井上は32年2月に射殺された。
1932年に駐日大使として赴任してきたジョセフ・グルーはJPモルガンと深い関係にある。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻なのだ。
この年、アメリカでは大統領選挙があり、ウォール街が操る現職のハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れた。慌てたウォール街の住人はクーデターを目論む。計画の中心的な存在である巨大金融機関のJPモルガンは司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。
ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。
話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。日本の政治経済に大きな影響力を持っていたJPモルガンはアメリカでファシズム体制の樹立を目論んでいたわけだ。
日本軍は1927年から28年にかけて山東省へ派兵、1931ねんには柳条湖事件、32年に「満州国」建国、37年に盧溝橋事件、39年にノモンハン事件へと続く。その延長線上にマレー半島や真珠湾への奇襲攻撃がある。
JPモルガンが1932年に日本へ駐日大使として送り込んできたグルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しかった。
そのグルーは第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたジャパンロビーの中心人物でもある。この団体の後ろ盾はウォール街だ。つまり、戦前も戦後も支配システムは基本的に同じ天皇制官僚体制であり、「戦前レジーム」だ、「戦後レジーム」だと騒ぐのは滑稽なのである。
アメリカやイギリスの支配層は第2次世界大戦の前と同じように中国やロシアの征服を目論んでいる。