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「2e」という特性について -(おそらく)一当事者としての視点から-


はじめに

 この投稿で述べる事象は事実ですが、「2e」という自認はあくまで自己判断でしかありません。また身元特定とそれに伴って生ずるであろう私とその関係者に対する物理的危害を避けるため、個人的な情報は最小限開示するにとどめます。

前提条件

 本題に入る前に2つほど申し上げたいことがございます。まずこれまでどなたかからお尋ねがあったわけでもなく、また私自身も語る必要はないと思っておりましたのでお話しすることはありませんでしたが、私は以下の「特性」(障害という言葉は私としては好みませんので「特性」という言葉を用います)と思われる疾患を抱えながら生活をしています。「うつ病」と「発達障害」です。この投稿において、これらについて言及する必要があるのは「2e」という極めて特殊な特性を語る上で必要があるからです。
 もう一つはこれから申し上げることはほぼ私の自己判断にすぎません。先ほど述べた「障害」は医師による診断ですが、「2e」であるということは私自身による自己判断でしかありません。この後、「2e」という特性と私がそれに該当するという根拠を述べていきます。
 私としては客観的な根拠に基づいて、この投稿を進めていこうと思いますが、もしかしたら単なる思い込みや無理のあるこじつけが混じっているかもしれません。そもそもこういった診断は専門家、具体的には医師にさえ、判断が難しいところがあります。例として、うつ病として通院していたつもりが別の「障害」であったということも結構あるようです(どうやら私もそのタイプのようです)。
 少し話がそれますが、メンタル疾患により休職する際に「うつ病」という診断が多用されるのは企業の人事担当者にとって「うつ病」という診断が一番イメージしやすいのだそうです。ですから、「うつ病による休職」といっても本当に「うつ病」であるとは限らないということです。
 では本編に移りましょう(この辺でもう、圧倒されてしまっている方々もおられるかもしれません)。

うつ病(単極性障害)

 「うつ病」に関しては、もうかれこれ20年くらい、通院・服薬をしています。同じ心療内科に通い続けています。「うつ病」になった方はほぼ二つのタイプに分かれます。短期で寛解する人と長期化する人に分かれます。ちなみに「うつ病」を含めたメンタル系の疾患については「完治」という表現を用いません。癌などと同様に、将来における再発の可能性を含めた「寛解」という表現を用います。(ちなみに躁鬱病のことは、対比する意味で「双極性障害」と呼ぶことがあります)

 付け加えておくと短期で寛解する人は、早い人であれば服薬をし、医師の指示に従っていれば半年程度で寛解に至るようです(ですが、これももちろん将来における再発の可能性から逃れることはできません)。
 私は明らかに後者(長期型)ですし、今も一日3回の服薬と月一度の通院を続けています。ほぼ「機械などの定期メンテナンス」的な診察と化しています。薬を段階的に減らす(減薬)を試みることもあるのですが、どうしても眠りの質が落ちます。眠れないというわけではないですが、浅い眠りになってしまいます。ですので服薬を続けています。

発達障害(片づけが苦手・興奮しやすい・衝動性など)

 これは生まれた時から変わらないです(ちなみにうつ病は大学院在学中に発症しました)。小学校の先生には何度も怒られましたし、親には、それこそ、この歳になっても叱られます。中学以降は、学校にいる際は、そうならないように工夫していたように思います。ただ実家の自分の部屋の散らかり具合はどうにもなりませんでした。私が現在狭い(といっても一人で暮らすには十分なのですが)アパートで暮らしているのもそのためです。
 部屋の写真をとってこの記事に貼り付けようかとも考えたのですが、どうしてもお見せすることができません。また身元特定の手掛かりとなるやもしれせんので、写真を貼ることは控えたいと存じます。
 写真の代わりに、このようなエピソードをご紹介しておきます。私もネットで物を買います。必然的に運送会社の方から荷物を受け取り、サインをします。その際にどうしてもドアを開けざるを得ません。運送会社の方も私の部屋を覗き込むことになります(少なくとも視野には入ります)。中には荷物を渡して、私がサインをすると(私からすると)逃げるように私の前から立ち去る方もおられます。それほど私の部屋は散らかっています。私の心の「闇」のようなものを感じるのでしょう。
 「興奮しやすい」ということにも心当たりがあります。具体的に申し上げると、特に就寝の際に到底あり得ないようなやり取り(想定問答的なもの)が頭の中でぐるぐる回っていて、対処を間違えると深夜であろうと、ベッドから体を起こし、その「ぐるぐる」が収まるのを待っている時があります。ただそれに対する対処については少しづつ気づきつつありますが。
 というよりも、一人でいる時は絶えず、何かを考えている感じです。それが良い方向に働いている時もあるし、悪い方向に働くこともあります。前者とも言えるしまた後者とも言えますが、人にぶつかりそうになることがあります。ですが実際にぶつかることはありません。そうならないように、脳の最低限のリソース(?)を視覚に割いています。もっと言えば、ぶつからないようにあらかじめ前から来る人の動きを先読みしながら街を歩いています。その結果、周囲の人からすれば、不自然な足取りになっているように見えるかもしれません。例として、人混みを歩くとき周囲からは私が不意に伸び上がって見える時がありますが、これは私が想定に入れていなかった(あるいは視野に入れていなかった)人が突然私の前を横切り、咄嗟にそれを避けようとする回避行動です。
 また「衝動性」にも心当たりがあります。実家で暮らしていた時がそうでした。私の母(正確にいうと継母、これ以上は申しません)が私に対して支配的に接してきて、時に私にとって苦しくさえありました。ですので「家出」まがいのことをしょっちゅうではありませんが、何回かやりました。そして母はそれに激怒します。そしてまた、という感じです。私が一人暮らしをしているのには、母の影響力から避難してきているということもあります。それが可能であるのにはある理由がありますが、私のプライバシーに属するものと考えますのでこれ以上は申しません。 

「2e」とは

 多くの方にとって耳慣れない言葉であると存じますので、Wikipediaのリンクを残すことにします。リンク先を読んでください、という一言で済むのですが、内容的に簡単でもないですし、また分量もありますので私として強調したいところをかいつまんでお話しします。
 まずいわゆる「普通ではない子供」への教育(特殊教育)が比較的歴史が浅い上、また心と脳という極めて複雑な構造体・臓器を扱う教育であり、そして対処法・実践的研究も多様です。ですがそうした蓄積を持ってしても解明できない事象もがある上に、そこへきて、発達障害、ギフテッドなどとますます複雑になり、(現状では)「2e」という極めて複雑な障害が誕生しました。
 おそらく特殊教育で日本より先に行っているであろうアメリカ合衆国でさえ、こういった「2e」のような存在を認知したのが2000年代であり、アメリカにこの分野において遅れをとっていると思われる日本においては、ほぼ認知されていません。先述のWikipediaの日本で現状の項に「この項の加筆が求められています」とあるのが象徴的です。ですので現状の日本において、うつ病に対する認知行動療法をはじめとする様々な対処法のようなものはないです。
 それも無理からぬことだと思います。リンク先をお読みいただければお分かりかと思いますが、大衆比0.06%から0.1%ですので、(私もそうでしたが)皆さんもまず目にすることはないと思います。私は以前から発達障害気味だなと思っていましたが、私がその当事者であり、それがまさかこれほどの少数派とは思いませんでした。私もつい先日気づいた、あるいは思い至ったという表現が適しているように思います。こうしてお話ししていても、ことの重大さをまだ受け入れきれずにいます。

「発達障害」と「ギフテッド」の同居

 さて「2e」ということについてささやかではありますが、知っていただいたところで、これが如何に取り扱いに慎重を要するものであるかをお話ししておこうと思います。まず「発達障害」、「知的障害」、「ギフテッド」もそれぞれ形は違えども社会における生きづらさを感じてます。
 「発達障害」、「知的障害」についてはわかりやすいかとは思いますが、「ギフテッド」については今ひとつピンとこない方もおられるかと思います。外見から見ると恵まれていると見えるかとは思いますが、(私にも実感があるのですが)日本社会という同調圧力が極めて強く、「普通」が理想とされる社会においては、とても苦しいです。なぜかというと、自分には「すごい力」があるにも関わらず、それを抑え、「普通」あるいは場合によっては「⚪︎カ」を装う必要があるからです。そしてそのようなギフテッドの子供は自分自身に能力があると意識して、あるいは無意識に感じているため、なおさらだと思います。
 例として、ギフテッドの子供が、周りの子供達がある問題に苦闘しているのを見て、ふと「ねぇ、こんなの簡単じゃない? だってさあ、(以下略)」からはじめ、滔々と説明を始め、それによって問題を解いてしまったとしたらどうでしょう。その場で「いじめ」が始まるとは思いたくないですが(残念ですが可能性はあります)、少なくとも周囲の普通の子供達はその子供と距離を取ることを考え出すでしょう。それこそ、クラスの中で孤立するでしょう。中には孤立やいじめに耐えられず、不登校・ひきこもりの道を選ぶでしょう。極端な例かもしれませんが、あり得ないことではないと私は思っています。だからギフテッドは、意識して「黙る」ことを選ぶのだろうと思います。ただ私はこの息苦しさに耐えきれず「⚪︎カ」のフリをやめました。ただ現在このような状態になり、そして過去を振り返った時、それが果たして正しい選択であったかどうかさえ、少なくとも今はわかりません。

専門家(医師など)でも難しい診断

 さて先ほど「2e」の歴史の短さに言及しました。私のかかりつけの心療内科の先生も「ごめん、よくわからない」とおっしゃっていました。全く同感です。日本はおそらく、また世界的にも試行錯誤どころか「2e」に関しては、暗中模索の状態なのだと思います。その意味では、絶望しそうになります。ただその医師の言葉、「発達もまた個性なのだ」という言葉に救われています。「世の中の誰も悪くない、ただ私の方が変わっているだけなんだ」と思うことができました。極めて特殊な「特性」を持つ私自身を受容できたのかもしれません。
 また同じ先生の「「障害は治さなければならない」という考えは潮流的に古い」という言葉にも救われています(正確にいうと私が確認のため投げた質問に答える形でしたが)。であるからこそ、特殊教育という教育が普及し、複雑ながらも多様な個性に対応し(限界は未だにありますが)、ギフテッド教育に至っているのだと思います。ただ、まさかその先の「2e」の当事者が私であるとは思いもよりませんでしたが。
 もしかしたら、私のような「強烈すぎる特性」を持って生まれてくる人がどの時代も一定数いるというのは、ヒトという種に組み込まれた延命策・生存戦略なのではないかと思います(このような急に突拍子もない意見を言い出すのも、実にらしいな、と思います)。組織論で「イエスマンだけで構成された組織は滅ぶ」とも言いますし、「攻殻機動隊」というアニメ作品だったと思いますが(定かではありません)、「統一規格だけしか存在しない組織は滅ぶ」というような意味の発言をキャラクターの誰かが述べていたように思います。
 理屈は簡単です。同じ意見の人、あるいは人材しかいないからです。弱点のない存在はありません。何らかの敵対勢力がその弱点をついた攻撃を仕掛ければ、同じ弱点を持つ集団であるため容易に壊滅させることができるのだと思います。逆に全員バラバラ、まとまりも感じられない、いい意味で多様性を持った組織の方が壊滅しにくいと私は思います(鬼滅の刃の鬼殺隊幹部集団、「柱」たちをイメージしていただくとわかりやすいかと思います)。
 であるからこそ、「攻殻機動隊」の主人公である草薙素子も自らが率いる「公安9課」に素子自身(全身義体、「電脳を積んだサイボーグ」と解釈しても良いでしょうか)や公安9課の他のメンバーとも全く異質の「トグサ」というキャラクターを引き込んだのだと思います。彼は「義体化」(サイボーグ化?)を一切せず生身の人間です(厳密にいうと作品によって違います。また素子は全身ですし、トグサ以外のメンバーは部分的に義体化しています)。そして彼(トグサ)はきちんと自身の役割を果たしているように(少なくとも私には)見えます。作品に興味を持たれた方のためにWikipediaのリンクを残しておきます。(公安9課も「柱」たちと共通の特質があると思います)

ほとんどが非正規雇用に終わった職歴

 また私の職歴についても「発達障害」と思える根拠があります。タイトル通り、私の職歴は、ほとんど非正規雇用に終わっています。数少ない正社員として勤務したのは警備会社でした。そこも心身への負担がかなりあったのでやめてしまいました。何度も「正社員になろう」的な、公的プログラムにも参加しましたが実を結びませんでした。そうして今に至っています。現在はある資格の勉強に専念しています。無職です。そうできている理由は、繰り返しになりますが、プライバシーに属すると思われるので申し上げられません。

私が自分自身を「2e」と考える根拠

 さてここまでは「2e」である根拠を「障害」という視点から見てきました。今度は視点を反転させて、「ギフテッド」という視点からお話ししたいと思います。

「ギフテッド」としての側面

「分からない」という人のこと・思考が分からない

 これは「ギフテッド」が持つ生きづらさの原因の一つとされています。例でも紹介しましたように、「ギフテッド」からすると、「わからない」という人の考え方・思考に、「恵まれた」自分の能力を以てさえ考えが及ばないということです。これには自覚があります。資格講座の理解度確認テストを受けていて常に思っていました。「なぜこの人たちは、この程度・形式の問題にこれだけの時間をかけているのだろうか」、と(LINEでつながっているみなさんの輪に加えていただいた時は私としては例外的な行動をとりました。その理由については後述いたします)。ただ口に出すことは一切しませんでした。なぜならばその一言で、試験の場の空気が極めて悪くなると判断できたためです。
 私は退出可能な時刻になるとすぐ退出しています。事実関係は試験監督の方に確認可能かもしれませんが、個人情報保護の観点からお答えいただけないと思います。ですがこれは事実です。諦めたのではなく、全て解き終わったからです。その結果は次の項にて述べることにいたします。

私の(おそらく)「不倒記録」

 さて前項に述べたように確認テストがどのような結果に終わったか、を述べる前にこのような表現を試してみたいと思います。私は、今の科目に到達するのに一年を要していません。今の科目の年末最後の授業が12月15日ですが、そこでさえ一年たっていません。せいぜい361日目くらいです。もうお分かりかと思います。私は確認テスト全てを一回で合格しています。そして前項のようにフルタイムを使ったわけではありません。最低点が60点です。科目6です。ちなみに科目7が94点(2番目に高い得点)です。
 最高点は科目10です。みなさんの輪に加えていただいた時です。これも確認は不可能かもしれませんが、100点でした。位置的には私の得点が見えた方もおられるかもしれません。厳密にいうと科目10も30分で解き終えました。ご記憶にあるかは確認できませんが、ただ他の科目のように退出可能時間を迎えてすぐ退出することはしませんでした。
 理由は、他の科目の理解度確認テストとは違う空気を感じたからです。緊張感、やる気、ポジティブさなど、なかなか言葉にしにくい空気を感じ、それらの空気を発している皆さんを尊重しようと試みたのです。これもご記憶にないかもしれませんが、それであってもフルタイムを使わなかったことは確かです。理由はフルタイムを使った際、答案がどう処理されるか不安だったからです。
 これらのエピソードについては、当時の私の言葉を借りれば「普通の学習者として私は極めて優秀なのだろう」と思っていました。でもそうではないようです、残念ながら。

「2eである」自認のきっかけとなった出来事

 さて今までは「2eである」根拠を中心に述べてきましたが、次はそれに気づくきっかけとなった出来事について語ることにいたします。

忘れているはずのに発掘される情報

 私は資格の勉強の合間に大型の書店で、ウインドーショッピング的なものを行っています。大体、意識的にものを考える訓練であるか、あるいは意識的に気分を入れ替える練習であると思います。
 ある時、とある歴史書、と言っても文庫版でしたが、それに目が行き、何気なく帯を眺めていました。その書籍は、具体的にいうと中国の唐王朝に関するものです。
 帯には関連する人物(主に唐代の著名な人物)の名前が列挙されていました。私は何気なく眺めていましたが、違和感を感じました。誰か一人足りないのではないか、と。私は、その足りない誰かについて頭の中で記憶をたぐり始めました。色々な姓が頭をよぎります。あれじゃない、これじゃない、と思い出せなかったので目次をめくってみましたが、手がかりはない。少なくともそれらしきものは浮かばない…。

 この時点で、前段落にある違和感に気づいていただきたいのですが、

忘れているはずなのに、なぜそれらの姓が間違えているとわかるのでしょうか?

 そして恐ろしいことに私の脳は忘れていたはずの人物に辿り着きました。具体的にいうと「郭子儀」という武将でした(厳密にいうと記憶を辿っている過程で「武将である」ということもなぜかわかっていました)。念の為、申し上げておきますがこの武将は私の中の想像上の武将ではありません。証拠としてWikipediaのリンクを残します。

 この時点で、以前からうすうす感じていたことではありましたが、私の脳は普通の人と全く異質な処理を行なっているのだということに思い至りました。もはや自分の能力を誇るどころか、自分自身が恐ろしくなってまいりました。「不倒記録」を、無邪気に喜ぶこともできなくなりました。

脳神経系への強い負担と思われる症状と医師の意見

 就寝のため、布団に入る際に私の目の中(両目)をチカチカと光がよぎることがあります。起きる頻度は、極めて稀に、ではありますが。漫画やアニメの表現でいう「目から星が出る」というやつです。専門用語としては、光視症というようです。

 私は、私に起こる「光視症」を「脳神経系に強い負荷がかかっているのではないか」という仮説を最近立てていました。あらかじめ申し上げておきますが、私は文系です。学部も大学院も歴史を専攻しました。確かに数学には強いのですが、せいぜい「数学強めの文系」です。確かにこういった脳の構造やメカニズムについて強い興味を持っていましたが、そこまで詳しいわけではありません。そういう人間がこのような仮説を構築できていたことにまず驚きました。
 この時点で、先のエピソードなどがあったので、先ほど紹介したかかりつけの心療内科の先生に相談してみました。まず「私はうつ病ではなく、2eではないか」という質問をぶつけてみました。先生はおそらくそうであろうというお答えをされました(こうした極めて特異な「特性」に関しては、そもそも医師ですら正確な診断はできません)。そして光視症が起こるという経緯と私の仮説もお聞きしました。先生はそれに対しては、大意として「自分は心療内科・内科医だがわからない、だが眼科医の検査を必ず受けろ」というお答えでした。医師の専門性の高さからすれば、当然の答えだと思います。
 ですが私の相談したいのはその先でした。これまでの状況をどう眼科医に説明すれば良いかわかりませんでした。医師の専門性からすると「2e」というものは心療内科である先生であればわかるかもしれない(厳密にいうとその先生は「よくわからない」というお答えでしたが、先ほどでも申し上げた通り、2eの歴史の短さからすれば当然のお答えでした)。必然的に眼科医には「2e」という言葉はわからないだろう、というのが心療内科の先生の見解でした。だから「検査を受ける時は2eという言葉は出さず、あくまで光視症として診断を受けろ」という見解がそれに続きました。確かに事の性質が大きすぎます。
 私としては、事前に光視症は、一般的に網膜剥離の前駆症状として疑われる症状であり、また網膜剥離の発症率が高くなるのが、現在の私の年代、つまり40代であるという情報を入手していたので、その日の午後に眼科医の診断を受けました。
 心療内科の先生からは「2e」という言葉は出すな、と戒められていましたが眼科医のお話を聞いているうちに、(これは完全な直感だと思うのですが)「2e」という言葉をこの眼科医の先生はご存知かもしれないと思い、思い切って説明してみました。直感は当たりました。ざっくりとしたご理解ではありましたが、ご存知でした。そして私は先ほどの自分の仮説をお話ししてみましたが、その先生もほぼその通りだろうね、というお答えでした。念の為、眼底検査もしていただきましたが、全く異常なしとのことでした。「きれいな眼底だね」というお言葉もいただきました。網膜剥離の恐れはないということには安心しましたが、逆に安心とは反対の感情、それも圧倒的な不安感が心を支配し始めました。
 なぜ私がギフテッドとしての特性に気づかなかったかといえば、小学校・中学校ではそのような用語も特殊教育にも目を向けたことがないですし、高等学校も私立の進学校に補欠合格という形ではありましたが、入学できました。お分かりかと思いますが、周囲も大変優秀な生徒たちであったため、私が突出して目立つということはなかったためであると推測しています。一浪して入学した大学、その先も大学院もまた同じでした。
 しつこいようですが、私は専門の医師でもなければ、医学生やその経験すらありません。そのような人間が、専門は違うとはいえ、二人の医師の見解と一致するような仮説を組んでしまった。ここまで来ると私が2eであることがほぼ確実であると言えると思っています。願わくば、ここまで提示してきた事実が私自身による嘘であってほしい、との思いが強くなってきています。

現在の心境

思っていたより…

 正直いうと、さまざまな思いが今去来しています。2eを受容しようとしている自分、それを拒否しようとしている自分、…。ただ確かなことは癌の余命宣告のように余命3ヶ月という宣告を受けたのではなく、この後の人生が難易度が劇的に上がることが確かになっただけです。そしてこの後の私なりに立てていた人生戦略を大きく変更することを余儀なくされそうです。
 2eを受容しようと思えるのは、2eの中で、表向きは極めて社会で活躍できそうなタイプであると私は判断しているからです。再びWikpediaの2eのリンクを貼ります。

 リンク先の概念図を見ていただくと、「2e」は、知的障害、発達障害、ギフテッドの3つのうち、3つ全て、あるいは2つの特徴を持つとされています。もうお分かりかとは思いますが、私には知的障害はないようですし(ここまでの長文が書けているのが何よりの証拠でしょう)、また私の人生を振り返っても勉強で苦労した覚えはありません。一つ思い当たるとすれば、筆圧が強いということです。指先に必要以上の力をかけている感覚があります。ただこれも私が知らず知らず不自然な持ち方をしているためだけかもしれません。
 そしてなぜ社会で活躍できそうであるかといえば、少なくとも私の部屋を覗かない限り(先ほど紹介した運送屋さんのエピソードのように)、「発達障害者としての私」は少なくとも第三者からは見えません。ですので、あくまで社会の中での私は、ギフテッドとしての側面と「発達障害」としての側面しか持たないからです。そして「知的障害」がないため、社会的規範や常識などをわきまえていて「発達障害」としての側面とギフテッドの負の側面をかなり抑え込めると考えているからです(人によりますが、極めて魅力的な人間であるという印象を持たれる方もおられると思います)。私は社会の中の圧倒的少数派である「2e」の中でもさらに少数派であろうと思っています。それゆえに「2e」の中でも迫害を受けそうです(あくまで仮説です)。
 根拠として、おそらく2eの特性をお持ちの方でも、(程度はさておくとして)「知的障害」や「発達障害」のため、自らが2eであることを自己診断できない方も数多くおられると思います。これは感覚的なものですが、おそらく「知的障害がないゆえに、自己診断とギフテッドの正の側面によって自ら2eという特性が自分にあるということに気づく」、つまり、私のようなタイプは極少数ではないかと思っています。
 そうはいってもギフテッドの負の側面と「発達障害」の側面を完全に抑え込めるわけではありません。私と同じタイプの「仲間」とこの先出会うことは天文学的な確率で低いでしょう。それゆえ孤独感や社会からの疎外感を(内面に出すことなく)かなり強く感じることでしょう。何気ない顔をして街を歩いていても、内面では強い葛藤に苦しむことになるかもしれません。これが2eを拒否したい自分がいることの根拠です。

 さてLINE内で私と繋がってくださっている皆様、ここまでお読みいただき大変感謝しております。さぞ驚かれたと思います。この投稿を控えてはどうか、というご意見をくださった方には誠に心苦しくはありましたが、こうして投稿することにいたしました。
 理由として、私自身もそうですし、また皆さんもそうですが、私のようなタイプとまた何らかの関係を持つことは、天文学的確率で低いと思っています。ただゼロであるとも言い切れません。2eと思われる私ではない誰かと関係を持った際に、せめてその方がどのような特性の持ち主であっても、あたたかく接していただければ私としては嬉しいです。確かに事の重大さからすれば、難しいかもしれないと思っています。ですが皆さんであればできると私は信じています。私に今までのように接してくださったのですから。

 10月16日に講座担当の方と今後の方針について相談する予定が入っています。そこでの話し合いがどのように展開するかは全く分かりませんが、場合によっては表向き「休学」というプロセスを経て、「退学」を要請されるかもしれません(確率は比較的に高いと思っています)。
 逆に講座での学習継続が許されるかもしれません。ただこのケースは可能性として極めて低いと思っています。今期におけるカリキュラム履修完了を諦められた方は、私とその方であれば(この件に気づく前の私としてですが)どうにかなるかなと思っていた方である方であったためです。そして私が思っていた以上に講座カリキュラムが崩壊しかけているためです。

 最後に私の身元を特定しうる全ての人々へのお願いです。
 もし私の幸せ・幸福・自己実現などを、心から願っておられるのであれば、どうかこのまま無名の一市民として私の生涯を終えさせてください。皆さんのもとに、私の両親・親類・友人などから問い合わせが来ることはまずないと思います(またそのように私も社会で行動します)。その際には、私という人間は「頭はよかったがごく普通の人間であった」とだけ伝えていただければと存じます。今は、「普通」という言葉をここまで羨ましいと思う日が来るとは、想像することさえありませんでした。

 

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