母のそばで♡旅立ち篇
とうとう母は旅立っていった。
父の所に行く決心をしたらしい。
95歳で肺ガンと闘った母。
一言も痛い・辛いと言わなかった。
私のお手本だ。
電車ごっこ
私はベッドのふちに座って母の手を握り「おはよう。気分はどう?」と聞く。母は「おはよう。今日は朝ご飯食べたくない」と言う。よくあることだ。「じゃあ、モモ食べる?」と聞くと「うん」と返事。
母はベッドから足を下ろして手を私の肩に回す。私は抱きかかえるようにして「よいしょっ!!」の掛け声で一緒に立ち上がる。私が前に立って、母の両手を握る。電車ごっこのように二人で少しずつ前に進む。これだと母が倒れる心配がない。
毎日しているわけではない。元気がないな、と思う時だけ。以前、妹に「えー?電車ごっこ?」と笑顔で言われたときはちょっと恥ずかしそうにしていたな。
電車ごっこでテーブルに着く。モモを剥いて一口サイズに切ったものを出す。「美味しい♡」と1個全部食べて笑顔になった。
トイレの記録
母はトイレから出ると必ず記録をした。時間、血中酸素濃度、脈拍。指先に機械を付けてノートに書く。これで「一日に何回行ったか」「間隔はどうか」がわかる。母のこだわりだ。夜中に書くとき見えるように、小さな電灯をノートのそばに置いた。
その日もいつもと変りなく朝の8時過ぎにトイレに行って記録をした。その姿が私の目に焼き付いている。
ほどなく訪問看護の看護師さんが到着。母はいつもシャワーを楽しみにしていたけど「今日は浴びない」と言ってベッドの上でケアをしてもらった。ケアの前に予防のための薬を飲む。「気持ち良かった♡ありがとうございました」と言うのもいつもの光景。看護師さんたちは「また来ますね」と笑顔で帰っていった。週に3回のケアだから、あさって来てくれる。
敬老のお祝い
みんながほぼ集まった。あとは二人の妹のうち上の妹が来れば全員だ。ご馳走も花も揃った。下の妹が模造紙にメッセージを書いてくれたので花と一緒に飾る。
さあ、お昼の時間。「ご馳走を食べよう」と声を掛けようとしたら母の様子がおかしい。急いで苦しい時の薬を飲ませ、血圧を計った。これはマズイ!!慌てて看護師さんに電話をした。看護師さんが来て先生と連絡をとる。そのタイミングで上の妹が到着。
「お母さんが大変!!」。ただ事ではない様子に妹の顔色が変わった。3姉妹が母を囲んで声をかける。
看護師さんがもう一度薬を飲ませるように指示。ところが飲んでくれない。いつもは少量の水に溶かした痛み止めをストローで一気に飲むのに、歯をかみしめて飲まない。飲めないのか、飲まないと決心したのかわからない。スプーンですくって口に入れようとしたがうまくいかない。
みんなで必死に声をかける。
「おかあさーーーん!!」「しっかりして!!」
「先生がみえるから待って!!」
母は苦しそうだ。背中をさすっても手を握ってもダメ。私は足を揉んだ。足の裏と爪が紫色になっていたのが、ピンクに戻った!今度は母を抱きかかえて声をかける。母はまばたきもしない、変だ!!
しばらくして看護師さんが「呼吸停止です」と言った。
耳は聞こえているはずだから話しかけよう!!
みんなで声をかけ続けた。
下の妹は泣き崩れているが、私はびっくりしすぎて涙が出ない。
あっと言う間のできごとだった。
処置
どのくらいの時間が経っていたのだろう。前後の感覚が不明。順序も思い出せない。
看護師さんと一緒に母の姿を整える。午前中の訪問看護できれいにしてもらったばかりだ。母はよほどきつかったのか頭を洗ってもらわなかった。だから最後のシャンプーをしてもらう。いつものようにドライヤーで髪を乾かす。上の妹が髪を可愛く編んでくれた。
そして看護師さんが処置をした。私はキビシイ場面だけどしっかり見届けよう、と思った。顔を背けてしまうのは「何か違う」気がした。
そしてパジャマから着替えさせる。
朝、「今日はお祝いするから、着替える?」と聞いたらちょっと考えて「いや、着替えない」と母は言ったのだ。
母のお気に入りの羽織で私が作ったワンピースを着せる。黒地に華やかなラメの小花が眼を惹く。夫が手に数珠を持たせてくれた。
みんなでお化粧を施した。口紅を控えめに塗ると、可愛い顔。最後は苦しかったのに、そのことを全く感じさせない、おだやかで可愛い姿。「ねえ、起きてよ。ご馳走食べるよ」思わず声をかけてしまう。
ささやかで幸せな時間
遠方にいた先生が駆けつけてくださった。私はここ数日の様子や、最後の様子を泣きながら報告。ここでやっと涙が出た。
昨日の昼食はラーメンとチャーハン。たっぷりのキャベツと卵を入れたラーメンを「美味しい♡」と食べた。チャーハンも思った以上に食べて「美味しい、何食べても美味しい♡」と言ってくれた。
夕食は刺身定食風。ごはん、みそ汁、刺身3点盛り、漬物。畑にできたウリを漬けたら母が気に入ってよく食べた。刺身はタコとイカが好き。それにタチウオも盛り付けた。
夜はお気に入りのテレビを見ながらおやつのアイス。
何でもない、ささやかで幸せな時間。
母との甘く、切なく、優しい時間は終わってしまった。
後悔はない。思い残すこともない。ただただ名残惜しい。
中秋の名月
葬儀が終わって3日ぶりに家に戻った。
母がいるような気がするのかな、と思っていたけど、何も感じなかった。母はここにはいない。自分の家に帰ったんだなと思う。落ち着くところに落ち着いたのだろう。
この日は中秋の名月。驚くほど美しい月を私は忘れない。