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夜汽車に乗って父に会いに行く

58年も昔の話。
6歳の私、4歳と1歳の妹と母の4人で夜汽車に乗って父に会いに行った。
家から遠い病院に入院中の父にお土産を持って。


駅までの道

まだ道も車も無かった時代。
真っ暗な坂道を母と私たちは駅まで歩いて下った。
母は1歳の妹を背中におぶい、4歳の妹の手を引き、もう片方の手に荷物を持った。私は子どもにとっては大きな荷物を持って歩いた。

やっと汽車に乗ると、ホッとする。向かい合わせの座席に4人で座る。といっても私たち子どもは寝てしまうので座席から落ちないように母が足で突っ張っていたのを覚えている。

ガッタン、ゴットン・・・。何時間も揺られながら、トンネルに入ると急いで窓を閉めた。

明け方到着。駅の洗面所で顔を洗う。きっと汽車の吐くススで顔は真っ黒だったのだろう。
ディーゼル機関車の時代だった。

病院まではバスに乗ったのか、覚えていない。

病室に着くと父は満面の笑みで迎えてくれた。確か8人部屋だった。同室の皆さんに小さなお土産を渡す。みんな、自分の家族が来たような喜びよう。
そして父はいつも私たちの顔を剃ってくれた。何故だろうと、いつも不思議に思っていた。
家族5人の温かい時間。

どのくらいの時間を一緒に過ごしたのだろう。
「お父さん、元気でね、また来るね」そんなことを言いながら帰ったのだろうな。

母の背中をさする

父は時々家に電話をくれた。みんなで交代に喋ったものだ。
電話を切ってしばらくすると、母は編み物をしながら泣いた。母が泣くと、妹たちも泣きだす。

私は泣かなかった。私まで泣くと、本当に何か悪いことが起きそうな気がした。そして、そっと母の背中をさすった、何も言わず。慰めや励ましの言葉を知らなかった。

58年後、ガンを患った母が苦しい時、やはり私は母の背中をさすった。薬を飲ませた後、落ち着くまでさすった。今度は慰めや励ましの言葉をかけながら。58年前のことを思い出しながらさすった。

話を戻す。
ある日の父の電話は最悪のものだった。検査の結果がとても悪かったのだ。「死」を意味するほどに!母は受話器を握ったまま気を失った。

私は急いで受話器を取り、父と喋った。喋りながら、妹たちにも大きな賑やかな声で喋ろ、と手で合図した。できるだけ何でもない風を装って。「お母さんは?」と聞く父に「うん、ちょっと疲れたみたい、大丈夫よ」と噓をついた。

電話を切った後、気がついた母はやっぱり泣いた。そして私は母の背中をさすった。

一世一代の家族旅行

父は遠い病院から、県内の病院に転院。入院、手術、退院で自宅療養、会社に勤務、しばらくするとまた入院を繰り返した。

そんなある年の夏、家族で旅行をした。みんな揃って旅行するなんて、もちろん初めてだ。私は16歳になっていた。

飛行機で宮崎県に飛び、観光は全てタクシー、という贅沢な旅だった。「お父さんができるだけ疲れないように」と母は言った。かなり良い旅館に泊まり、美味しいものや珍しいものを食べた。観光名所も訪れた。

日頃はとても質素な暮らしなのに、違和感を覚えるくらい贅沢だった。これが家族揃っての最初で最後の旅行となった。

といっても悲劇が起きたわけではなく、私たちも成長して自分の生活を持ったので、家族での旅行はしなかっただけだが。

その後、何年か経って奇跡的に父は回復した。定年までしっかり働いたうえ、会社の新事業立ち上げメンバーとして単身赴任もした。新事業が立ち上がると母も一緒に新事業所近くのアパートに住んだ。その間に、自宅を建て替えるという、自分自身の新事業も成し遂げた。

実はね!

私たちがすっかり大人になったある日、母が教えてくれた。

「実はね、あの時は手術の結果が良くなくて、先があまりないかもしれないから、好きなことをさせてください、って病院の先生に言われたの。だから思い出をつくろうと思って旅行したんだよ」

そうだったのか!何も知らずに楽しんでいた私。ところが妹は違った。

当時14歳だった妹は「なにかおかしい」と感じていたそうだ。「いつもは禁止のジュースも好きなだけ飲ませてくれるし、なにか変だぞ!」。
極めつけは、旅行が終わって帰着駅の食堂でごはんを食べた時。妹が「ジュース飲んで良い?」と聞くと母がにっこりして「良いよ」と言った。「やっぱりおかしい!もしかして、家に帰ったら大変なことが起きるのでは?」とドキドキしたそうだ。しかし家に帰りついても何も起こらず、無事に朝を迎えた時、心底ほっとした、という話。妹は眠れなかったに違いない。

なかなか、ませた妹である。

妹もまた大人になって母と昔を振り返ったのだ。
妹と母のそんなやりとりを聞いて一緒に笑った。

思い出は人生を豊かにする


今になって、母は本当によく頑張ったな、と思うのだ。
結婚で一旦は仕事を辞めた母だけど、父の病気で仕事に復帰した。治療費や入院費が必要なのにお金がなかったら大変なことになる、という恐怖心があったそうだ。加えて私たち姉妹を高校まではなんとか行かせたい、と強く思っていたという。

父もまた、強い気持ちで運を引き寄せたのかなと思う。医者が父の回復を「奇跡だ」と言ったらしいから、スゴイものだ!
母も人生最後の年をわが家で過ごし、医者から「ここまで持ち直すのは奇跡」と言われたから、キセキつながりの夫婦だ。

母が亡くなってから特に、昔のことを思い出す。年をとった証拠だ。しかし思い出して温かい気持ちになったり、勇気を持つことを思い出したりするのも悪くない。

思い出は人生を豊かにする、と思っている。

最後まで読んで頂いてありがとうございます♪


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