恩返しと恩送り
母を姉妹で看取った。
敬老のお祝いに集まった場で、つれあいも一緒に。今までチームとなって母を応援してきたメンバーだ。
みんながそれぞれ、できることをしてきた。そして母は常に感謝の気持ちを素直に伝えてくれた。私の家での介護生活だったから、妹たちは私や夫に感謝とねぎらいの言葉をかけてくれた。
しかし、私は大切なことに気づいてしまった・・・。
人間はできることしかできない
一生懸命に、真心を尽くして母の世話をしたことは間違いない。
母も安心して暮らせたし、私も母との生活は楽しかった。
95歳で肺ガン末期で、それでも最後まで普通の食事をし、自分でトイレに行った。そんな母を妹たちとみんなで見守ってきた。
しかし、ふと思ったのだ。
私がもっと深い人間なら、また違う介護ができたんだろうなあ・・・・。
自分が思いつくことはしたけど、思いつかないことはできない。
今更だけど、noteで人の記事を読んでいるとギクッとしたり、そうなんだ!と気づきがあったりする。
介護初心者なんだから、もっと人の話を聞いたりnoteを読んだりすれば良かった。勉強不足だ。
新しいことをするときは必ず勉強するではないか?なぜ、介護をしながら介護のことをもっと知ろうとしなかったのか?システムのことは調べたり聞いたりしたけど。介護される方の気持ちに興味をもって勉強すれば良かった。
目の前のことだけに気を取られて視野が狭くなっていた。
ごめんね、お母さん!
決して悪い介護生活では無かったと信じているが、もっと良くする余地はたくさんあったはずだ。何事も「これで良い」ということはない。
恩返しをしたかったのに、ちょっと残念で悔しい。
寸草春暉(すんそうしゅんき)
「寸草春暉」とは「親の恩や愛情は大きく、子がわずかに報いるのも難しい」という意味の熟語だ。「寸草」は子が親の恩や愛情に報いようとするわずかな気持ちのこと、「春暉」は春の陽光で、子を思う親の愛のこと。
短いちっぽけな草を温かく見守る春の太陽が見える。
母は「ありがとう」を心を込めてたくさん伝えてくれた。
私は母を守っているつもりだったけど、実は自分が守られていたんだと今になって思う。「ありがとう」に包まれて安心して居れたのは私だ。
拙いながら、足りない所もありながら母のために動いている私を、温かく見守ってくれていたのだと今はわかる。
寸草春暉を身体で感じた。
優しいのは・・・
ある時母が「あんたは優しいねぇ」としみじみ言った。どうしてかと尋ねたら「ダンナさんが早く風呂に入らなくても急かさないから」と言う。笑ってしまった。そんな些細なことを「優しい」と言ってくれる母の方が本当に優しいじゃないかと笑える。「お母さんはね、いつもお父さんに『早く入ってよ』って急かしてた」と告白。
夫は最後にゆっくりお風呂に浸かりたい、自分が先に入ってお湯を汚したら次の人に悪い、と思っている。それでいつも私と母が先に入った。(後に母は訪問看護師さんにシャワーしてもらうことになるのだけど。)
「お先しました~」と言う私に夫は「はーい」と返事してからが確かにちょっと長い時がある。その時見ているテレビ番組にもよるけど。
わが家では、私がお風呂に入るタイミングで洗濯機に水と洗剤を入れる。夫が入る時に洗濯機を回す。すると夫がお風呂から上がってしばらくしたら洗濯は終わる、という流れだ。終わったら母と3人で洗濯物を干す。
だから夫が早くお風呂に入れば早く洗濯は終わる。でも私には「早く」することに意味があるとは思えない。彼がゆっくり入るといっても夜の9時くらいの話であって、烏の行水であるから9時15分くらいには上がってくるのだ。
「『おやすみなさい』をするのは10時半くらいだから、何もそんなに急ぐ必要はない。入りたいタイミングがあって、それを決めるのは本人だから。もちろん、家族が多いならそうも言っていられないけど、今はたった3人だよ」
そう言うと母は感じ入ったように私を見つめ、また「優しいねえ」と言うのだった。
何でもない行動に「優しさ」を見つけられる人が本当の意味で優しいのだろう。
こうして私は親の大きな優しさと愛に包まれて今日まで生きてきたのだと思う。
恩送り
さて、母の介護をして恩返しを少しでもしたいと思ったのだ。しかし足りない所や残念なところがあったのも事実。寸草春暉・・・。全くその通り!
しかし、母が向こうの世界に行ったからといって親孝行できなくなったわけではないことに気づいた!
これから先の百か日、初盆、一周忌、三回忌・・・と続く法要をしっかりみんなで執り行うのも親孝行ではないか?再来年は父の十三回忌もある。父と母の法要をきちんと行っていこう。
そして自分が受けた恩や愛を子どもたちに伝えていく「恩送り」も、親孝行になるのではないか?親が亡くなった後も親への恩と愛を感じて大切に思う姿を次の世代に見せること。この姿を親が見たら喜び、安心するのではないか?
そう思ったら悲しんでばかりはいられないし、そもそも父や母との縁はずっと続いていると確信している。目の前から父と母の肉体が見えなくなっただけで、存在は感じることができるのだから。
父と母はこの世からあの世へと住所を移したけど、心の交信はできる、と思っている。今は写真の母に向かって話しかけているけど、写真がなくても話しかけることができるはず。
夫が言った。「写真があると、見られてる感じするね」。私は軽く笑ってこう言う。「写真があっても無くてもいつも見られてるよ!」。