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七人の侍と赤穂事件


武士道は日本人の本質とイコールではない

1954年(昭和29年)公開の『七人の侍』は、戦国時代が舞台の時代劇。
野武士の略奪に苦しむ農村に雇われた、七人の侍が活躍する黒澤明監督の名作です。
私は二十歳過ぎの1980年頃、京橋の国立フィルムセンターで初めて鑑賞しました。
上映後、観客から盛大な拍手が湧き上がったことをよく憶えています。

赤穂事件は江戸・元禄期に起きた史実です。
赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城松之廊下で高家・吉良上野介に対し刃傷に及び、内匠頭は即日切腹の処罰、その後浅野家も断絶しますが、吉良には何の咎めもありませんでした。
その一年半後、筆頭家老・大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良邸に侵入し、上野介を討ち取ります。
この事件の経緯については皆さんご存知のこととして、ここでは省きます。
この事件を題材にして創作されたのが『忠臣蔵』。
当時から人形浄瑠璃や歌舞伎、講談として上演され、近代以降も映画、テレビドラマ等で幾度となく取り上げられています。
主君の仇討ちに過度にフォーカスしドラマチックに脚色された『忠臣蔵』と『七人の侍』との間に共通点を見い出すことはできません。
しかし『七人の侍』で描かれた、貧しい農民の為に命を張った侍の魂と吉良邸に討ち入りをした赤穂藩士の真意には、相通じる精神性が認められます

新渡戸稲造著『武士道』は江戸時代の武士道が儒教の影響を受けてしまった為、その内容は日本人の生き様として完全に受け入れられるものではありません。
その中にあって、第5章「仁」と第8章「名誉」が日本人の特性をよく表しているように感じます。
今回は「名誉」について考えてみたいと思います。(次回の記事で「仁」を検証)

侍が名誉を重んじるようになった理由

“侍”と“武士”とは、元々源流が異なります。
両者の起源については諸説あり、はっきりとしたことはわかりません。
侍は古代、皇族や上級貴族に“さぶらふ”(仕える、侍る(はべる))中下級貴族でした。
“寺”は当時の役所を指したので、“侍”は役所の人=役人であり、武官とは限らず文官も侍と呼ばれていました。
その頃の武官は武士ではありません。
彼らが存在感を増していくのは、朝廷が武官を頼りにし始めたことによります。
朝廷は西国は概ね統治していましたが、東国の蝦夷は朝廷に“まつろわぬ”(従わない)人々。
蝦夷や西国内でも反抗的な豪族を服従させるのに、文官貴族では役に立ちません。
しかし武官は下級貴族で権威がない為、朝廷は彼らのリーダーに“蝦夷を征討する軍の総大将”という意味で“征夷大将軍”の栄誉職を与えます。

武士は“もののふ”と呼ばれ、古代の軍事を司る武人豪族・物部氏に由来します。
平安時代中期の10世紀頃から、武官ではない武士が都だけでなく各地で台頭するようになり、武士団が結成されました。
次第に貴族は力を失い、ついに武士は鎌倉に武家政権=幕府を開きます。
それ以降、幕府は朝廷から武家の棟梁たる“征夷大将軍”の称号を賜り、日本の統治者となっていったのです。

戦国時代、侍は“さむらい”と呼ばれるようになり、武士と同一視されます
大雑把な言い方をすれば、武士の中に侍(上級武士)と徒士(かち・下級武士)がいます。
“武士”は元来武人、軍人のことであり、“侍”は出自が貴族なので騎乗して戦いました。
江戸時代には下級武士全般まで侍と呼ばれるようになり、奉行所の与力は下級武士でありながら騎乗が許されることもあったそうです。

日本の武士とヨーロッパの騎士はとてもよく似ています。
侍は朝廷、上級貴族に仕える下級貴族でしたが、騎乗するので“騎士”とも呼ばれました。
一方、ヨーロッパの騎士も国王、貴族諸侯に仕える下級貴族の立場です。
共に自らに忠誠を捧げ、誇りと名誉をかけて戦う戦士。
中世の武士と騎士は主君とは契約上の関係なので、関係が悪くなれば契約を切ります
武士は時として下剋上で主君を裏切りましたし、騎士は時として主君よりも神(法王)に仕えテンプル騎士団のように十字軍に参加しました。
両者の決定的な違いは、政権を取ったか取れなかったか、という点です。
騎士は諸侯や国王の弾圧により力を失い、権力の座には着けませんでした。
対して侍は、政権を担う名誉ある存在になることで、誇り高い精神を涵養していきます
武士道が騎士道に優る高尚な精神を体現できたのはその為ではないでしょうか。
侍は自身の名誉と誇りの為に生きる究極の個人主義者となっていったのです
果し合い、仇討ち、切腹はその視点がなければ理解できません。
小林正樹監督『切腹』(1962年)は完成度の高い映画で、カンヌ映画祭のグランプリ最有力候補でした。(グランプリは逃すも審査員特別賞)
小林はこの映画で封建社会と武士道を批判することで、現代の日本社会批判を試みます。
しかし西洋人の反応は小林の意図に反して、騎士道以上の精神性を持つ武士道にさえ、更なる自己批判を試みる高潔な作品として高い評価を与えました。

武家社会が長く続いたことにより、武士道は日本人の生き方の根幹をなす価値観となっていきます

赤穂事件の真実

事件当時、赤穂藩には約300人の藩士がいましたが、討ち入りしたのは47人。
討ち入りの一次資料の中に「亡き殿のご無念を晴らすため…」という浪士たちの証言は見つかっていません。
江戸城で刀を抜いた殿の暴挙に対する家臣たちの反応は冷ややかで、誰も仇討ちは考えていませんでした。
そもそも仇討ちとは、故人の恨み(無念)を晴らす為の復讐ではありません。
果し合いが名誉をかけた決闘であるように、亡き目上の親族に成り代わって名誉をかけて果し合いをする、という意味合いです。
多くの場合、子が親の仇を討つのが一般的で「主君の仇を討つ」という考え方自体がありませんでした。
実際、儒学者たちは論争の末、討ち入り(不法侵入)は仇討ちとは認められないとの結論を出しました。

それでは何故47人は討ち入りを決行したのでしょうか?
4人の家老を含む10人以上の上級藩士の内、参加したのは大石内蔵助ただ一人。
半数近くは下級藩士や士分にない者であり、藩主に御目見が許されない立場でした。
彼らは浅野内匠頭の顔も声も知らなかったのです。
大石は内匠頭の弟・浅野大学による浅野家再興の道を模索していましたが、幕府の不公平な裁定により赤穂藩は取り潰され、浪人となった藩士は辛酸をなめます。
四十七士は吉良を討つことで幕府に一矢を報い、侍として又赤穂藩士としてのプライドをかけて戦ったのだと思います。

『武士道』の中で新渡戸は「名誉は境遇から生じるものではなくて、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにある」「名誉や名声が得られるならば、生命は安いもの(中略)生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられた」(奈良本辰也訳)と述べています。
侍は自らの言動の責任を自らに帰すが故に、切腹をします
処罰として申し付けられる切腹は本来的な意味での切腹ではなく、ただの処刑。
武家社会においても、人を殺傷することは犯罪でした。
訳あって大刀で人を殺めたとしても、その責任を取って小刀(脇差)で自らを処することもできるように、侍は二本差しなのです。
侍は自我を求める孤独な者と言えます。
その意味でアラン・ドロン主演のフランス映画『サムライ』は的を得た作品と言えるかも知れません。

浪士たちは討ち入り後、これは仇討ちであると主張しました。
おそらくそれは、儒学の影響を受け忠義が重んじられる武士道に対する皮肉を込めた建前でしょう。
第二次大戦中に敵艦に体当たりした特攻隊員を、戦争の犠牲者とする論調が戦後大勢を占めました。
しかしそれは、軍国主義批判を誇張し過ぎた妄想であり、英霊に対する冒涜に他なりません。
彼らが国家(ステート)や天皇の為に戦ったことは偽りではないと思いますが、それは建前です。
彼らの本音は愛する人たちと故郷(カントリー)を守る為に自ら命を捧げたのだと思います。
突入する瞬間に「天皇陛下万歳」とは叫ばなかったでしょう。
愛する家族を想って死んでいったはずです。
だからこそフランスのド・ゴール政権時の文化相で作家のアンドレ・マルローは、特攻隊に男の崇高な美学を見ました。
七人の侍も四十七士も特攻隊員も自らの誇りと名誉の為、義に生きたのです
私は人生で、家族や属する集団に本意でないことをやらされたり、犠牲になったことは一度としてありません。
助言を受けることはあっても、自身の判断と意志で行動してきたつもりです。
それが日本人の本来の生き方であると考えます。

今回の記事はJ-Story No.10です。
前回の記事No.9はこちらからどうぞ!↓


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