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誇り高く名誉を重んじる日本人
2025年は歴史の節目となる重要な年
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あけましておめでとうございます。
令和7年、2025年が始まりました。
今年は1945年の終戦から80年に当たります。
その80年前の1865年は安政五カ国条約(1858年に米、蘭、露、英、仏それぞれと締結した不平等条約)を天皇が勅許したことにより、事実上の開国が決定した年です。
前回の記事で、“国家のバイオリズムは80年で一巡り”と記しました。
今年は明治開国、戦後の再興と同じく、夜明けであり春を迎える年ということになります。
近代最初の80年は軍事力強化、次の80年は経済力強化がテーマでした。
それぞれ前半40年は順調でしたが、後半に失速します。
そこにはアメリカの力が働いていました。
2025年からの80年間は、中途半端なままの国防体制と経済体制を立て直しつつ、文明力強化がテーマになるでしょう。
20世紀最高の経営学者ピーター・ドラッカーは「20世紀は経済が社会をリードしてきた。21世紀は文化が社会をリードする。そのリーダーは日本である」と予言しています。
160年前の1865年はアメリカ南北戦争終結の年でもあります。
南北分断を回避した合衆国と明治維新(1868年)を成功させた日本の歴史は、『ラストサムライ』で描かれたように互いにリンクしています。
近代になり日本とアメリカは、ヨーロッパの次の覇権を争うライバルとして国際社会に登場したのです。
日本とアメリカは宿命のライバル
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植民地を持たない新興国アメリカは、大西洋の東側が全てヨーロッパに支配されていた為、西に活路を見出さざるを得ませんでした。
西部開拓、国土の確保も充分と言えない時代から、太平洋に乗り出しました。
独立から間もない19世紀初頭にはハワイへ進出。
プランテーション農場を経営しながら政治的発言力を強め、19世紀末にはハワイ王国を滅亡させ併合します。
アメリカの真の狙いは中国市場、満州の権益にありました。
ヨーロッパが統治していない中国北部を握ることは、覇権国家を目指すアメリカの夢。
しかし、太平洋は広大です。
現実的に必要なのは燃料、食料を補給できる港であり、ハワイの先の寄港地として日本に開国を求めてきたわけです。
また、本国で本格的な油田開発が始まる以前のアメリカは、照明等の油を鯨油に頼っていました。
その為日本近海での捕鯨の物資補給基地としても、日本の港はどうしても欲しかったのです。
19世紀半ば、艦隊を率いて来航したマシュー・ペリー提督、その後のタウンゼント・ハリス初代駐日公使との交渉は、幕末の日本が明治維新へと至るきっかけとなりました。
しかしアメリカは南北戦争後の混乱もあり、明治初期の近代国家建設にはあまり関わっていません。
やがて開国した日本は、巨大市場・中国への進出を目論むアメリカにとって乗り越えなければならない障壁であり、両国の衝突は避けられない宿命となりました。
日露戦争時、ユダヤ系アメリカ人ヤコブ・シフが戦時国債を引き受けてくれたお陰で、日本は戦費を賄うことができました。
更にセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、1905年大国ロシアに勝利します。
しかし戦後、アメリカからの南満州鉄道共同経営の提案を小村寿太郎外相は拒否。
この頃から、アメリカは日本を敵国と想定するようになります。
第1次大戦においても戦勝国側だった日本は、開国からわずか半世紀で世界の五大国となりますが、脅威に感じた欧米列強のバッシングは次第に強まり、孤立していく中ついに第2次大戦では敗北。
戦後の経済成長期にも“Japan as No.1”となった日本を陥れる為、1985年のプラザ合意が画策されました。
それ以降、日本経済は停滞したままの状態。
何れもアメリカが大きく立ちはだかったのです。
恨みを持たない日本人に共産主義は根付かない
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21世紀から世界は太平洋文明の時代に入りましたが、その両岸に位置する日本とアメリカは自由と人権を掲げる旗手となる国でしょう。
太平洋文明が目指す理想は、人類が追い求めてきた自由と人権が守られる社会です。
それを脅かす勢力が独裁主義、権威主義を掲げる大陸国家であり、その本質はマルクス主義なのです。
共産主義の基底にあるマルクス主義は、カール・マルクスの“恨みの思想”から生まれました。
青年期にマルクスが感じた社会に対する“恨み”が思想として体系化され、レーニンが殺人を厭わない“革命”で社会を変えることを正当化したのが共産主義です。
だから共産主義(マルクス主義)は“恨み”を動機として“殺人”を目的とします。
社会の弱者や虐げられている人に国家に対する恨みを抱かせ、人々を社会の転覆へと駆り立てます。
かつてフォークの神様と呼ばれた岡林信康に『くそくらえ節』(1969年)というプロテストソングがありました。
大人や経営者、政治家に対して「くそくらえったら死んじまえ」と繰り返す曲です。
反戦を唱えながら一方で死んじまえと唄う、左翼の本音=殺人の思想がよく表れている歌詞です。
左派の政治家、学者、メディアは20世紀を戦争の世紀と宣伝し、盛んに反戦を訴えます。
しかし現実は、戦争よりも共産党による革命、粛清の犠牲者の方がはるかに上回ります。
把握されている死者数だけでも1億人を超えますが、殺害が秘密裏に行なわれる為、戦争以上に表に現れない犠牲はもっと多いことでしょう。
私見ですが、20世紀中の戦争以外の共産主義による犠牲者は、2度の大戦を含む戦争による犠牲者の2倍以上、3倍近くになるものと推測します。
だからこそ、確信犯的マルキストは共産主義の正体を覆い隠す為、殊更「戦争だけはやってはいけない」と反戦、反戦を叫ぶわけです。
マルクス主義はプロイセン(ドイツ)で生まれ、革命はロシアで起こり、共産主義は主に大陸国に勢力を伸ばしました。
対して海洋国には自由と民主主義が根付きやすいようです。
日本人はあまり“恨み”を持たない人々と言えます。
幕末に来日した西洋人は日本人と接して“誇り高く名誉を重んじる国民”と評しました。
自尊心が高い日本人は被害を受けたとしても、相手を赦し、恨みを抱かず、水に流します。
日本人にとって恨みを持つことは、被害を防げなかった自らの力のなさを認めることで、それを恥と捉えるのです。
他人や周りに対して恥ずかしいのではありません。
自らのプライドが傷ついて名誉が損なわれる、そんな恥辱を受けるくらいなら、無かったこととして忘れようとします。
歴史上、他国からひどい目に遭わされたことも多々ありました。
元寇の際の対馬、壱岐の島民に対する高麗軍の仕打ちは筆舌に尽くし難い蛮行でしたし、第2次大戦中の都市への空襲や原爆投下は国際法違反の犯罪です。
しかし、それを今だに恨み続けるという感情は日本人にはありません。
広島カープは長い間、外国人選手を受け入れませんでした。
私が中学2年生の1972年、初の外国人で元アメリカン・リーグMVPのベルサイエスと契約しますが、彼はキューバ人でした。
73~74年に在籍したヒックス、マクガイアというアメリカ人は2人共黒人選手。
白人選手をなかなか入団させなかったのは、被爆者の感情を考慮してのことでしょう。
しかし75年、監督に就任したジョー・ルーツ(シーズン途中辞任)が連れてきた白人選手ホプキンス、シェーンの活躍もあり、カープは戦後30年目、球団創設25年目でセ・リーグ初優勝を果たしました。
その時点では白人の監督、選手に対して広島市民、県民のわだかまりは無かったと思いますが、既に一世代分の年月が経過していました。
おそらくもっと早くにアメリカ人選手が入団していたとしても、広島の人達は快く受け入れていたことでしょう。
日本人は自己肯定感がとても高いので、否定的な恨みの情は水に流すことができます。
デール・カーネギーは「恨みを抱くな。(中略)いっさいを水に流して出直そうと申し出てこそ、大人物である」と語っています。
恨みを抱く心はマルクス主義の温床となります。
誇り高く名誉を重んじる日本の民族性は、その崇高さ故に共産主義を受け入れません。
今回の記事はJ-Story No.9です。
前回の記事No.8はこちらからどうぞ!↓