「二人の小父さんとあの老女」8.
(此の街にも雪が積もる程に降った朝、何年か振りに落ち武者小父さんに出会った私です。)
五、元気だった落ち武者小父さん
あの老女が夫婦の話題に上る前日、私がリヤカー小父さんを目撃してから季節は急に冬の様相を呈し、其と共にリヤカー小父さんは見掛けなく成った。寒い時期は冬眠と洒落込むのか判らぬが、此の街に溶け込んだ小父さんを見ないと落ち着かないのは私達夫婦だけだろうか。若しかしたら此の街の住人の大半は清々しているかも知れない。
年が明けて瞬く間に松が取れ小寒、大寒を過ぎ、さて其の先に直ぐ立春だなと思っていると、然うは問屋が卸さない。南岸低気圧の影響で今日の昼頃から此の街にも雪が降ると言う。正に暦通りの天候だ。
会社でも昼過ぎには業務に支障の無い者や遠方からの通勤者や事務職には帰宅指示も出る程で、近距離通勤者である私は事務所の鍵を下ろす役目を担って帰宅の途に就く。
「只今ア」手を洗いうがいをしてリビングに入る。
「只今」改めて声を掛ける。
「お帰りイ、如何、雪は」テレビを見ていた妻は立ち上がり外の様子を聞いて来る。
「もう積り始めてるよ、明日の朝は大変だ」
「ニュースも其ばっかり」
「少し降っただけで大都市はパニックだもんね」
今日の晩御飯は鰈の煮付けと白菜と豚バラ肉の鍋だ。鍋料理は何処の家庭でも其の家庭の定番が有ると思うが、我が家の鍋は至って簡単だ。
白菜と豚バラ肉を食べ易い大きさに切ったらあとは土鍋に敷き詰めるだけ。最初に白菜の芯の部分を一層敷き詰め、次に豚バラ肉を次に敷き詰める。此のとき豚バラ肉は出来るだけ一枚一枚剥がして敷かないと肉が塊りに成るので美味しくない。此を材料が有るだけ繰り返して重ね、最後は余裕が有れば弱火に掛けて湯気が吹き出す迄じっくり待つだけだが、時間が無ければ最初は強火で蓋が熱く成って来れば弱火でも構わない。我が家では最初の頃は出汁や調味料は何も入れなかった。白菜と豚バラ肉の旨味だけで充分美味しいし白菜からしっかり水分も出て、火に掛けるときは蓋が閉まらない程でも時間が経てば少々材料が少ないかなと思う位萎んでいる。最近は顆粒の和風出汁を少しだけ入れるように成った。食べるときはポン酢と柚子胡椒が最高だ。テレビの料理番組で白菜と豚バラ肉のミルフィーユ鍋と云う名前だったか、見た目を重視して紹介していたが、我が家の遣り方だと手間いらずで、がさつに誰でもが出来るので断然良いと思っている。
鍋を突き乍らビールを飲んで今日のもうひとつの肴はテレビのニュースだ。もう私が帰宅した時間帯は各地で電車の遅れや車の渋滞が発生しており、ニュースは殆ど其の話題で持ち切りだ。此の街に住んでから何度か雪が積もる位降っているが、歩くのに難儀はするが出社出来無かったことは一度も無く、此の街に棲み家を選んだ妻の面目躍如である。
「凄いねえ、此の街で良かったでしょう」
「流石、先見の明だね」
「でしょう」今日は何を言っても怒らないかも知れない。
朝起きて窓を開けると銀世界だ。早速テレビを点けるとどの番組を見ても交通情報と街の様子を映しており、問題は周辺部と中心部を結ぶ交通が遮断されているため周辺部に住んでいる人達が中心部に入って来ることが出来ないようである。裏を返せば中心部の特に地下鉄は間引きでは有るが動いているので私のような人は出社可能と成る訳だ。
「お早う、如何、電車は動いてるの」今日は仕事に出ないと言っていた妻には交通情報は関係無い筈だが、良い意味で野次馬だ。
「お早う、会社には行けそうだよ」
「最悪歩いてでも行けるしね」一度休みの日に会社近く迄歩いて行ったことを妻は憶えている。確かに普通に歩いて四十分程度だったから雪道を割り引いても二時間も歩けば悠々着くだろう。しかし間違い無く難行だ。
「やっぱり此の街に住んで良かったね」昨日からの鼻高々は続いている。妻が機嫌の良いときは家庭円満だ。
家を出ると窓から見る以上に目が痛い程の一面銀世界で、普段に比べ音が少ない。積った雪の吸音効果は有るだろうが、其にしても車が全く通っていない。いつもは十分位掛けてひと駅先に歩くのだが、今朝は五分で着く一番近い方の駅に向かうことにしよう。
家の前の大川の支流沿いの道は勿論、リヤカー小父さんの小橋を通る北東から南西に抜けている道にも車の轍も足跡も殆ど無い。
がりがりがり、びしゃびしゃびしゃ。
小橋迄出ると幹線道路を通るトラックのチェーンがアスファルトを削る音と、摩擦熱で溶けた雪をタイヤとチェーンが撥ね上げる音が聞こえて来る。靴の中には既に少し雪が入り込み其が溶けて靴下が濡れている。家から小橋迄の短い距離で此だからあとが思い遣られる。
小橋の北東袂から南東袂に小橋を渡ろうと前方を見ると、小橋の真ん中辺りを歩くサラリーマンがひとりと反対側の歩道を幹線道路から小橋に向かって歩く人がひとり見えるだけだ。いつもより早い時間帯だからいつもなら学生さんが沢山歩いているが、大雪のため学校も休校なのだろう。滑って転ばないように全神経を足下に集中させる。
普段は気にもしていなかったが小橋とは言え船の航行のため橋の中央部が高く成っており、真ん中に行く迄は緩い上り斜面で過ぎると下り斜面だ。歩道には前を行ったサラリーマンの足跡が有るが一度踏まれた雪は滑り易い。新雪を歩こうと一歩前に出したが、積雪が意外に深く靴の中に入って仕舞い「革靴は駄目だ、長靴が欲しい」と思い乍ら、二歩目からは足跡をなぞって歩く。
すると少し前を歩いていたサラリーマンが何を思ったか、下り斜面で急に歩みを速めたと思った次の瞬間、片足が空を蹴るようにすってんころりだ。怪我は無かっただろうか。目の前で起こった出来事に緊張感が増して、自分も然う成らないようにと気を引き締めてより慎重に歩を進めるが、普段とは違うべた足が結構疲れる。橋の真ん中で下りを前に気合いを入れ直そうと一旦立ち止まり顔を上げると、件のサラリーマンは小橋を何とか渡り切って平坦な歩道を歩き乍らお尻の辺りを掌で払い乍ら歩いているのが見える。怪我はしていないようだ。雪の所為で転んだが、雪のお蔭で怪我が無かったと言える。正に不幸中の幸いだ。
反対側の歩道を小橋に向かって歩いていたもうひとりを何気無く見ると、何と落ち武者小父さんではないか。こんな日に何年振りの再会だろうかと思ったが、先ずは小橋を渡り切ろうとゆっくりと緩い下り斜面を下りる。
転ぶこと無く遣り過ごた私は平坦な所で立ち止まり、落ち武者小父さんはと振り向くと小橋北の赤信号で摑まっている。小父さんの出で立ちは赤いダウンジャケットでは無く赤いダウンコートに身を包み、両手には以前と変わらず紙袋をぶら提げている。信号が青に変わると、以前と変らぬとぼとぼ歩きで北に向かって横断歩道を渡って行く。
私も再び前を向く。「何年振りだ」思わず口を突いて出るが周りには誰も居らず怪しまれることも無い。幹線道路に出ると流石に足跡は多く有るものの今は人通りが少ない。駅迄は未だ難関が二ケ所で、ひとつは初めて落ち武者小父さんを正面から見た橋の手前の上り斜面とあの老女に施しをした銀行手前の下り斜面だ。未だ未だ気を抜けない。普段使わない脚の筋肉を総動員して一歩一歩安全第一で時間を掛けて地下鉄の出入り口にやっとこさ辿り着く。地下鉄への階段を降りるときの脚はがくがくで運動不足が露わだ。
(五、元気だった落ち武者小父さんの後半につづく)