「芭蕉より一茶が好き」24.
(七月十五日は少し長めですが、十五日を一気に投稿します。数えで米寿の年の選句を進めるのですが、やはり一日で一年分の選句は体力的に無理があるようです。)
七月十五日
今朝も尿意で一日が始まる。
「お早うございます、おしっこはしっかり出ていますね」看護師さんはトイレの始末をし乍ら患者の状態を把握することを忘れない。
「朝ご飯の準備が整う迄待って下さいね」
ベッドに上がり乍ら「有難う」を返す。リモコンスイッチでベッドを起こし食べる態勢で朝ご飯を待つ。窓に目を遣ると朝とは思えない日差しが射し込んでいる。此処何ケ月もの間、外出していないので天気を気にすることは無いのに今朝は不思議に気に掛かる。「外は暑く成りそうだな」
朝ご飯は心持ち少なく成ったような気がする。食が細く成った私への配慮かも知れないが自分では判断が付かない。
昨日よりも時間が掛かったが何とか朝ご飯を平らげる。「良かったア」声には出さないものの朝ご飯も残したら如何しようかと心配していた処だ。
「良かったですねエ」ちゃんと引継ぎされている、又違う看護師さんが後片付けに来て声を掛けて呉れる。少なくして貰ったのか尋ねようと思ったが止めておく。残さず食べ終えた満足感を大事にしよう。面白い物で然う考えると気持ちも上向く。朝のルーティーンを終えると床頭台に置いた出句ノートに手を伸ばし昨日からの続きを見る。
八十七歳の年の始まりは俳誌AMに出句した特別作品「峠道」と題した十句からだ。前々年の四月にサークルで峠越えの旧街道を歩いたときの句である。特別作品はAM結社の主宰ら幹部から指名されて初めて俳誌に掲載されるので大変な名誉だが、一方で情けない句は出句出来ないと云う重圧は掛かる。
雉鳴くや芭蕉辿りし峠道
此の句から成る十句だが、此を読むと私が芭蕉に心酔しているように受け取られるかも知れない。実際AM結社の主宰に出会う前迄は然うだったが、今は現代口語でも句作する主宰の影響を受け一茶に傾倒するように成っている。私の代表句のひとつが頭に浮ぶ。
芭蕉より一茶が好きでちやんちやんこ
確か八十歳のときだったと思うが、AM結社の新年俳句大会で最高賞を取った句で具体的かつ明快に私の心情を吐露出来、呆けても忘れられない句だ。次の二月を見ると、俳誌KMに出句した句が主宰の選に入っている。
寒の水飲んで胃の腑を驚かす
冬の朝、起き抜けに飲む一杯の水が本当に体に良いのか疑わしく成る程の冷たさを中七の後半と下五で軽妙洒脱に表現出来た句だと自負している。続いて同じ二月に好きな句材での一句だ。
地球儀の太平洋に初日射す
私の書斎にバスケットボール大の地球儀が有る。もう四十年以上前の現役時代に英会話を勉強するため買った教材の付録に付いて来た物だから色も褪せているが書斎に入れば必ず目に入る位置に置いている。元日の朝に雨戸を開けると初日の出の日差しが地球儀に当たっている。今年も世界に取って良き年に成りますようにとの願いを込めている。
私は若い頃から海外のニュースが伝わると地球儀で其の国や場所を確かめる。一番思い出すのは、旧制中学のとき太平洋戦争の開戦日にラジオで開戦を知った旧友と学校に有る地球儀を前に真珠湾が有るハワイの位置を確かめたことだ。思わず出句ノートを繰っている。「有った有った、此だ」八十二歳のとき開戦日に寄せて詠んだ句を見付ける。
地球儀に布哇探せし開戦日
懐かしくも苦い思い出を句に込めている。七十年以上前のあのとき、地球儀を囲んだ旧友の顔が浮んで来る。「ああ、彼も居る、彼も、彼も、彼も」「彼は如何しただろう、彼は死んだ、彼もだ、次は私の番か」病室の窓に目を遣ると、眩し過ぎる日差しに目を開けていられず目を瞑る。そして其の儘暫く物思いに耽る。
気が付くと少しうたた寝していたようだ。続けるか。
二次世界大戦後の冷戦時代にソビエト連邦が崩壊したときにも、地球温暖化が世界的関心事に成ったときにも地球儀を使って社会派の句を詠んで来たが、初日射すの句は社会全体の安寧を願う肩肘張らない自然体の句に成ったように思っている。続いて頁を繰って行くと一月から三月に掛けて三つの俳句大会に投句した句が並ぶが残念乍ら選からは漏れている。新鮮味に欠ける推敲句であることを見透かされているのかも知れない、と思っていると看護師さんの声が聞こえる。
「昼ご飯ですよオ」うたた寝した時間が結構長かったのかも知れない。
昼ご飯も残さず食べることが出来、少し昨日の不安が払拭出来た気がする。再び出句ノートを開けると、三月に俳誌KMに出句し句友から感銘の句との評価を戴いた句が有る。
笹鳴きや戦記をしるす明智薮
明智薮は言わずと知れた戦国の武将明智光秀が主君織田信長を討った本能寺の変から僅か十二日後に落ち武者狩りの農民の襲撃に遭って絶命した場所で、其処には「近江城主明智光秀は」で始まる本能寺の変からの経緯が刻まれている石碑が有る。銘文を読んでいるとき都会では滅多に聞けなく成った笹鳴きが聞こえて来たと云う句だ。笹鳴きが鬱蒼と茂る竹籔を想像させると共に、志半ばで歴史の舞台から消え去る光秀の無念さを表しているようだとの高評価と記憶している。
次の頁には地元の俳句作家協会主催の吟行で投句した二句が並ぶが遺句集に所収する程の句には成っていない。吟行と言えば殆どの場合が気心知れた句友と行くのが常で他流試合は滅多に無い。だから此のときと許日頃の成果を発揮したいと緊張の面持ちで当日を迎えたのだが、思いとは裏腹に空回りして秀句どころか句に成ったのは二句だけである。又もや発想力の無さを嫌と言う程思い知らされた訳で、此の日の手帳には確か惨敗と書いたのを苦々しく思い出す。
然う言えば此の惨敗の吟行の三日後に私に取って大事な米寿の行事が有った筈だが何処にも書き留めていない。上五さえ思い出せば其の句は出て来ると目を閉じ記憶を辿る。
米寿祝ふ子らに囲まれ夏に入る
確か上五が窮屈だったと思い乍ら、頑張って頭に血を巡らせ何の変哲も無い句を何とか引っ張り出す。上五が字余りで悔しさは残るが私には記念の一句である。
出句ノートに戻ると五月以降の出句では十二月迄の八カ月で二つの俳誌の主宰の選に入ったのが僅か二句しか無いのが寂しい。
花万朶憂きことすべて忘れ去る
五月の俳誌KMの選に入っている。老齢の域に入っても憂きことは未だ未だ多く、早く忘れ去ることが出来ればそれに越したことは無い。幸いにも満開の桜が咲き乱れている場面に遭遇出来、花の力で悩みも消し飛んだと詠んでいる。其処には季節が巡る度に何か感動することは無いか、何か楽しいことは無いかと探し回る私が居る訳で、どうも傘寿を過ぎた頃からそんな思いに駆られている。
花八ツ手古刹といふも堂ひとつ
二句目の選はもう十二月だ。同じ俳誌KMに出句したが、中七、下五の「古刹といふも堂ひとつ」は私のお気に入りの常套句で、古刹を尋ね歩いて頃合いの季語を探し歩き花八ツ手にやっと巡り合えたと思っている。
此処迄で九句しか選べていない。しかもそのうち一句はあとから選句する自撰百句に重複しているかも知れない。無い物ねだりしても仕方無いが寂しさは否めない。
今考えると毎月毎月の俳誌の出句は曲者だったのだろう。加齢と共に体力も衰え吟行や出歩くことが減り、句作したく成る感動に出会う機会も少なく成っている。出句の締め切り日が迫ると如何しても句作ノートに頼り推敲句に成って仕舞う。だから納得する句が出来る迄休息期間を設けるなどの工夫が有っても良かったのではと思う。何れにしても六年前で此だから今は推して知るべしである。
しかしもう少し八十七歳の年の句を選びたいと思い、A六判の句作ノートを手に取る。順に繰って行くと夫婦の「老い」をテーマにしている句が多いことに気付かされる。
つのりくる北風に老いたる身を曝す
恙なく米寿迎へて初御空
存分に生きてや米寿山笑ふ
米寿とて尻込みすまじ父の日よ
米寿を迎えて嬉し恥ずかしの中にも気後れを感じるときが有る。そんな思いが選んだ句に表れている。自分の「老い」を見詰める句には自己肯定も有れば叱咤激励も有って面白い。選んだのは一月句作の二句と三月、六月に一句ずつの四句だ。
涅槃吹く我より先に妻死ぬな
老斑に雫たらして梨を剝く
秋暑し妻腰痛を訴へる
六十年以上連れ添う四歳下の「妻」に対しても「老い」を観察している。選んだのは五月、八月、九月に各々一句ずつの三句だ。
表面上は妻の体調や老いを心配しているものの「私を遺して逝かれても困る」と随分自分勝手であり、私は考えたく無くても目の前に死を意識している。
露の世に生まれし曾孫たくましき
当然老いのあとに待つのは死であり死後の「家族」が気に掛かる。露の世の句は単純に曾孫の成長を喜んでいるだけでは無く、私の死後も我が家系は安泰で居て欲しいと暗に言っているのだが、不遜と言われても致し方無い。疲れを感じ始める。
晩ご飯の声掛けで目覚める。ご飯前に用足しでベッドを離れるも覚束ない足取りは変わらないが、何とか用足しを済ませてご飯も残さず食べる。夜のルーティーンを熟すと寝る前にとA六判の句作ノートを開く。
大方の友死に我は生身魂
九月の句作だ。子や孫から生身魂として大事にされて有難いが、一方で旧友と語ろうにも皆鬼籍に入り話し相手もいなく成り寂しさが募る。そんな思いを句に込めている。
若かりし頃を知る旧友との偶の語らいは、妻や家族や句友たちとの交わりと違い若さを取り戻せる特効薬なのだが、其が無くなることで精神にも肉体にも痛手が有り知らず知らずのうちに句作にも影響を与える。評価はさて置き、生身魂の句には生身の人間らしさが滲み出ており、師の求めた俳句道即人間道に半歩位近付たのかも知れないと思っている。然う言う意味で遺句集には遺しておきたいと思う。テーマは「友」と「別れ」である。
やはり疲れている。八十七歳の年を終わらせようと思ったのだが無理は禁物だ。然う思うと余計に疲れる。
(七月十六日につづく)