「芭蕉より一茶が好き」36.

(体の不調に加え、「別れ」のテーマに気持ちも沈み選句作業に向かえない主人公です。殊に甥の死は突然で未だに悔いが残っており、二十六日は瞬く間に一日が終わり翌二十七日に成りますが・・・)

七月二十六日
 外は既に白んでいる。頭の中には昨晩からの「別れ」の句が残ってはいるが次の選句作業に向かえない。朝ご飯と朝のルーティーンを終えても其の気に成らない。
 
 尿意が私を目覚めさせて呉れる。尿意が無ければ眠れる森の美女のように誰かに起こして貰わなければ起きなかったかも知れない。「直ぐに昼ご飯ですよ」気が付くと看護師さんが横に立っていて手を取り乍ら教えて呉れる。然う言われて三時間以上も寝ていたことに驚きは隠せない。そんなに寝ていたのか。
 昼ご飯を食べ終え少しは選句作業のやる気を取り戻す。
 
     骨壺の骨がことりと暮の春
     人ひとり葬りをればほととぎす
 
 甥との「別れ」の句を昨晩に続いてもう二句選んだが、改めて四句を見返して見ると如何に突然だったかが甦る。
 
 私が満八十歳の四月、警察からの通報で尋常ならざる事態を知ったのである。亡き長兄の長男で将来に希望を見出せず、自ら命を絶つ縊死であった。享年五十八歳だった。
 甥は、航空測量技師でサラリーマン勤めを辞め自身で起業し孤軍奮闘するも、会社経営の難しさで心労が重なり脳内出血を発症。志半ばで会社を畳みリハビリを余儀なくされたあと、其の後何年かはリハビリも順調だったが亡くなる半年程前に再度発症するに及び遂には世を儚んだのだ。私も甥の行く末を案じ郷里に在る義弟の知る福祉施設への入所を相談していた矢先の出来事である。所持金も僅かで遺書は無かった。
 長兄が亡くなったあと親代わりだった私は起業の際の出資と共に甥の希望から監査役を引き受け、一時寝たきりに成った甥に代わり廃業の手続きを取り仕切った経緯が有る。其だけに甥の死には今でも悔いが残る。
 
 三句目の骨壺の句は、長兄が亡くなったときに詠んだ「白き骨がさりと砕け風光る」のオノマトペを意識して詠んでいる。
 突然其れを知る筈も無いのに看護師詰所からだろうか、がさっとと何かが落ちたような物音がする。急に鼓動が高鳴り選句作業を進める手が止まる。「今日は終わろう」自撰百句をそそくさと片付けると大きく息を吐く。
 
「晩ご飯ですよオ」看護師さんの鋭い声で目は開けたが頭はぼうっとした儘だ。体が怠いが尿意だけは遣って来る。
 寝惚け眼で起き上ると頭が揺れているように感じる。一度目をぎゅうっと閉じもう一度開けて目を瞬かせる。目脂の所為なのか視界に靄が掛かっているので又瞬かせる。其を何度か繰り返してやっと普段の視界に戻るが冴えない気分は残っている。「如何したんだろう」と思い乍ら、肩を上下させ首を二三度左回り右回りと廻し凝りを解す。すると忘れ掛けていた尿意が襲って来る。「選句に根を詰め過ぎたかな」
「大丈夫ですか」嫌な気分の儘ベッドから降りるともう看護師さんだ。余程足を前に運ぶ迄に時間を要したか、二歩目を前に出した処で顔を出して呉れる。「然うだ、晩ご飯の準備で近くに居たんだ」
 何とか用を足しベッドに戻る。其の間看護師さんは排泄物の後始末だ。食事の準備が有るのに申し訳無いと思うのは気持ちだけで行動では返せない。
然う斯うする内に目の前のスライドテーブルに晩ご飯が配られ、お膳に並んだ器をひとつずつ目で追っている。白いご飯、小さく角切りの豆腐と若布が入った味噌汁、法蓮草のお浸し、なまり節の煮付けとパック入りのお茶が並んでいる。普段なら御菜が何であれ箸をつけ始めるのだが手が出ない。「何かが違う」用足しで目も頭もすっきりした筈なのにと思い乍らお茶パックに手を伸ばす。横っ腹にくっ付いているストローを剥がそうとするも指の乾燥も手伝い中々剥がせずに居ると配膳途中だった看護師さんが逸早く私の傍に立った。
「お手伝いしましょうか」言うが早いか手が伸びるのが早いか素早くお茶パックを私の手から奪っている。
 特別早く手が動いている訳では無いだろうに今の私には看護師さんが手品師のように見える。ストローの外側のビニールを自分のエプロンのポケットに入れ、お茶が飛び出さないようストローを差し込み口にゆっくり丁寧に挿し手渡して呉れる。「有難う」と感謝を伝えお茶パックを両手で押し戴くように受け取る。「こんな状態で能くも選句が出来るよな」我乍ら驚くしか無い程体は鈍い。
 体が此のような状態で食欲は推して知るべしだ。味噌汁だけは食べ切ったがご飯もおかずも半分は残して仕舞う。
 
七月二十七日
 久し振りに何かに追われているような夢を見たが細かい所は全く思い出せない。無理に思い出そうとする気も無く、天井や窓の方を見ては目を瞬かせ静かに起きる準備をしていると尿意だ。若しかすると便意も有るかもしれないと起き上り、依然重い体を動かしてやっとのことでベッドの横に立つ。ひんやりとした感触が足の裏から伝わって来て初めて裸足だと気付き下履きを探すが、床に視線を落とすだけで足も動かさないし況してや腰や膝を折ってベッドの周りを探そうともしない。裸足の儘でベッドに摑まり一歩二歩と亀の如く歩みを進める。
「お早うございます、大丈夫ですか」動きを見れば一目瞭然だが、看護師さんの目は笑っている。心配顔をして不安を与えないようにとの配慮だろう。
私も看護師さんの思い遣りに応えようと手を借り、ポータブルトイレ迄は我慢しようと下腹部に全神経を集中させる。どれ位の時間を要したかは判らないが、何とか辿り着き用を足せたときは安堵感が頭の中一杯に広がり自然に笑みが零れる。
 失禁の緊張から解き放たれたあとは半ば放心状態でベッドに戻る。看護師さんから見れば其の姿は蝉の抜け殻に見えただろう。
 
 次に気が付いたのは朝の配膳で声を掛けて貰ったときだ。声が掛からなければいつ迄も寝ていただろう。しかしベッドを起こされても食欲は湧かないしと思っている処にご飯を五分粥にして量も減らしたとの説明。看護師さんはしっかり看て呉れている。「有難い」其のとき頭に血がひと巡りしたような気がする。「選句作業が出来るかも」
 朝ご飯は看護師さんの判断を無にすること無く平らげる。「大丈夫だろう」
 そして善は急げで重い体をよじり乍ら床頭台の自撰百句を手に取って句を目で追う。しかし残念なことに其のあとが続かない。甥との別れが余りにも衝撃的だったことが甦って仕舞う。「焦ることは無い」然う自分に言い聞かせて自撰百句を床頭台に戻す。横に成って甥の起業から亡くなる迄の十年位を回想している。

(七月二十八日につづく) 

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