「芭蕉より一茶が好き」29.
(主人公はかつて自らが選句した自撰百句から遺句集に所収する句を選ぶ作業に入ることになります。ひとつひとつの句に思い入れが有ってどれも捨て難く、時間を掛けて選句作業を進めて行きます。七月二十三日は3回に分けて投稿します。)
七月二十三日
確か昨晩寝入る前は些か靄靄した気持ちだったように記憶しているが、ひと晩寝て何故か気持ちがすっきりしている。所謂諦めの境地なのかも知れない。要は遺句集のために選句を急げと云う訳だ。然う成ると遣ることはひとつである。自撰百句から再抽出をして所収句を決めることだ。取り敢えず覚束ない動きの中、用足しだけは早々に済ませベッドに戻り自撰百句に向き合う。
自撰百句は数えると全部で三百五十八句。満八十歳に成った年の一月から満八十三歳の十二月迄の四年間の句作から選んでいる。第二句集を上梓して脂が乗り切った頃の句作だから読み返して見るだけでも気分が高揚するし、一句一句に作った当時が甦り元気の源に成るのは間違いない。しかし間に合うだろうかと云う不安は勿論有る。有るには有るが自分の寿命何て神のみぞ知るだし、譬え志半ばで斃れたとしても既に自身の選句の第一段階は終わっているので前書きや後書きが無くても良いじゃないか。然う思うと急に気が楽に成る。私の得意技だ。
早速テーマ毎に分けて行こうと思った処に「お早うございます」の声が聞こえ、看護師さんの朝の日課が始まるようだ。
朝ご飯、朝のルーティンを終えやっと本題に取り掛かる。次の輸血がいつに成るかは私の病状次第。其迄に目一杯選句作業を遣ろうと思う。先ずは最初のテーマは「歩く」からで良いだろう。日常の散歩は勿論、近在の名所旧跡への散策や吟行、吟旅での感動や驚きや気付きで得た句を選ぼう。先ずは七十代最後の正月からだ。
大手門越ゆる放水出初式
年明け早々のAM結社での句会で出句した句だ。そこそこの評価を戴いたので、ならばと俳句コンテストに投句した処入選する。新しい年の幕開けに相応しい出初式の華やかさと消防隊の放水が如何に高く飛んでいるかを上手く表現出来てている。
年女撒く福豆に打たれけり
節分会が近付くと今年は何処へ行こうかと考える。其の度に豆撒きを題材に句作しているのだが中々秀句と言える句が無い。そんな中で此の句は敢えて季重なりさせて恍けた風合いを醸し出し、今年はより良いことが起きる予感を思わせる句に仕上がっている。但し豆が当たったのは勿論私だが、年女に当たったとも読み取れる点が課題だと思う。
A四判を横にして一句一句を縦書きに印刷された句をひとつひとつ見て行くと、其々に当時の光景や句作の苦労などが思い出され些か興奮気味の私である。続けよう。
享保の膝崩しゐる男雛
此の句の三年前の吟行で「享保の男雛は膝を崩しをり」と詠み、第二句集にも所収した句の推敲句である。男雛と膝を入れ替え、雛人形が正座していない驚きがより表現出来、推敲成功と思っている。
バタフライで泳いでゐるよ鯉のぼり
満八十歳を迎えても句作に休みは無い。AM結社の主宰を意識した口語体の句だ。風の風速や風向が絶えず変わるのか、鯉のぼりが波打って流されている。其の様子が片仮名の泳法と口語体を使い上手く表現出来ている。
羅のをんなからから笑ひをり
地元サークルの集まりで出会った女性の仕草から此の句を作ったのだが、もし顔見知りの方であれば此のような句には成らなかったと思う。今の風潮からすれば、幾ら知らない女性でもをんなは失礼だと言われるだろう。
歩くこと日課と決めて夏帽子
文字通り素直な句である。日課に成ったのは自由人に成った七十歳前後からだ。歩くことで句材に事欠か無く成り、其を素直に認めているのが伝わって来る。
Tシヤツに人体模型図秋暑し
中七の字余りに挑戦した句だ。人体模型で止めると、Tシャツに模型がぶら下っているのかとも解釈されるので図が必要に成ると云う訳だ。私の年代だと学校の理科教室に有ったあのグロテスクな人体模型を思い出し、残暑で暑い街中を歩くには些か暑苦しいと思って仕舞う。
生きて今ひたすら歩く天高し
快晴の秋の空の下、体調も気分も上々で歩く楽しさが伝わる句だ。空の青に雑念が吸い揚げられて行くようである。
正月の巫女募りゐる留守の宮
普段歩くルートにも多くの神社が有り、大半は神主が近くに住んで居ない。そんな神社にも旧暦の神無月には正月の準備を始める。其のひとつが巫女募集の貼り紙だ。其を見たとき、今年一年も早や終わりに近付いたと云う思いを詠んだ句である。上五に正月が有るので新年の句と思えば然うではない。季重なりの句に見えるが、あくまでも正月は巫女募集の貼り紙の連体修飾語の位置付けなのだ。
此処迄が満八十歳のときの「歩く」をテーマにした代表句か。次の年の自撰百句を手に取る。
三門に四温の風のただよへる
満八十一歳に成る年の正月の句だ。松の内に開かれた句会前に、折角だからと会場近くの名刹を散策する。境内に流れ来る一月と思えぬ暖かい風を感じ詠んでいる。季語の三寒四温を使った句だが、季語の前段を上五の三門に掛け、中七に後段を配置する工夫の一句に成っている。只、この句には四年前に句作した下五がただよへりの元句が有るが、元句に比べ感覚的により暖かさを感じると思いただよへるにしたのを思い出す。
木と語り刻む御仏日脚伸ぶ
俳誌AMの創刊周年記念俳句会で三人の選者から高評価を戴いた句だ。
歴史を辿る地元サークルで行った地方の小都市。古は栄えたであろう鄙びた街に有る古刹で見た一木造りの仏像に題材を得ている。目の前に在る仏像に、一本の木と無心で向き合う仏師の姿を思い描き詠んでいる。季語の日脚伸ぶに悠久の歴史も掛け合わせて高評価を得たようだ。
涅槃図の嘆きの渦に巻き込まれ
散策も少し足を延ばすと名所旧跡、名刹古刹に事欠かない。私の誕生日に丁度公開されていた大涅槃図を鑑賞したときの句だ。
キリスト教に於けるキリストの受難を描いた絵画と同じように仏教に於ける釈迦入滅の様子を描いた涅槃図。能く見ると横たわる釈迦を取り巻く人々に混じり象や猫までもが悲しんでいて、あたかも自分もその場にいるよな錯覚に成って仕舞った思いを詠んでいる。
裸婦像を眩しがらせてクロツカス
お気に入りの散策場所のひとつにOK句会の会場から歩いて程近い所に日本で最初に開園した植物園が有る。月に一度の句会に合わせて訪れるので四季折々の草花に出会え、私に取っては句材を拾うのに恰好の場所と言える。中でも裸婦像は私のお気に入りで、像の周りの花壇に咲く可憐な花との共演を多く詠んで来ている。
両手を後ろ手にし、胸を張り露わな乳房を前に突き出し、体を左側に捻り、顔は同じ向きにのけ反らす裸婦像。植物園に来ると如何しても立ち寄り眺めるのは男の性と云う物だろう。春未だ浅いその日、像に向かって左側の花壇には黄色いクロッカスが鮮やかな色を放っている。正に、裸婦像が顔を背けているように見える光景を中七で上手く表現出来たと思っている。
(七月二十三日その2につづく)