「芭蕉より一茶が好き」23.
(七月十四日その3・・・八十六歳の選句もそろそろ終わります。しかし、少しだけ変調を感じる主人公です。)
其の翌々月の八月には其の健やかな体とは対極に有る病める娘の乳癌を心配する親心を詠み、AM結社の句会に出句している。此の句もテーマは「家族」である。
乳癌を切除せし子や夏の月
春に娘が乳癌と診断され我が家に衝撃が走る。健康に人一倍気を遣う妻はさぞ意気消沈するだろうと思いきや、娘に対していつもと変わらぬ態度に母は強しを再認識させられたことを思い出す。妻曰く、罹ってしまったのは致し方無い、だから主治医の言うことを能く聞いて完治を目指そうと言う。其が夫婦の合言葉に成り、私も妻に引っ張られ腫れ物に触るようなことに成らなかったのだ。当の娘も乳房を片方切除する手術のあとも普段通りに我が家に時折顔を出し何事も無かったかのように過ごしている。和やかに微笑む娘を見ているとほっとする一方で、神は何故娘に片方の乳房を失うような試練を与えたのだろうと思って仕舞う。そんな気持ちを夏の月に重ね合わせて詠んだのがこの句である。俳句としての評価は今一歩だったが忘れられない一句である。次の九月には永年俳句道に勤しんで来たからこその句が有る。AM結社の吟行での句である。
永らへてまたも訪ねし嵯峨の秋
二十一歳のとき職場俳句会で初めて吟行に参加し、「颱風の去りて嵯峨野の今日の月」を詠み第一席を獲得している。其の後の俳句道にのめり込む切っ掛けのひとつに成った上に元より「歩く」ことが好きだった私に歩き乍ら句作すると云う吟行を教えて呉れたのである。感慨深い思い出の地を同じ九月に再訪出来たことを句に込めたのだが、残念なことに平凡な句に終わっている。しかし記念の句には変わりないので前書きに気持ちを込めて遺句集には是非所収したい。もうひとつ九月に「家族」が増えた喜びの句が有る。
二人目の曾孫生れて今日の月
前々年に結婚した孫娘に出来た私達に取って二人目の曾孫である。九月の透き通った円い月のような人生を願って素直に詠んだが素直過ぎたのかも知れない。そして師走。戦中派としては如何しても十二月八日からは目を離せない。
新聞に一行もなき開戦日
終戦から六十八年経ったその日、朝刊にも夕刊にも何ら太平洋戦争にまつわる記事が無かったのである。私は其に危機感を憶え、あの惨たらしい戦争の記憶を風化させてはならないと云う思いで詠んだのだ。テーマは「反戦」以外の何物でも無い。今も世界の何処かで銃声や爆弾の破裂音が響き渡り多くの人々の鳴き声や呻き声が聞こえているが、何故人はあの教訓を活かせないのだろうかと不思議に成って仕舞う。そんな戦中派の嘆きを知ってか知らぬか、時計は時を刻み毎年日記を兼ねた手帳を買う時期が遣って来る。
来年に迎へる米寿日記買ふ
私に取って賀寿の祝いの中でも米寿は格別の思いがある。喜寿のときは満七十八歳で亡くなった父の年齢の、傘寿のときは満八十歳で亡くなった母の年齢のそれぞれ一歩手前だったこともあって、この米寿が名実ともに両親より長生き出来た証しの賀寿のお祝いが出来ると思っていたのだ。斯うして八十六歳の年が呉れて行くが、締め括るにはひとりの大事な「友」との「別れ」を詠んだ句を忘れてはいけない。
さよならも言はず友逝き曼珠沙華
亡き友を偲びてをれば小鳥来る
長生きをすると其だけ多くの人を見送ることに成り其の都度寂しさが募る。殊に亡くなったことすらもあとで知ったこの「友」の場合は尚更であり、寂しさは現在進行形と言っても過言では無い。
旧工専時代からの同人誌仲間と云うだけでは無く、お互いに勤め人と成り結婚して家庭を持ってからも七十年近くに亘り長く付き合った気の置けない「友」である。戦中戦後の混乱期を共に乗り切り戦中派として結束も固く思い出も多かっただけに、六月の入院も八月の逝去も何も知らずにいたことに今でも悔いが残る。しかも惜別の句だけでも気の利いた句が遺せれば良かったのだが、最初の句はさよならを言はずに逝くに、同じく次の句も亡き友を偲ぶに季語を加えただけの平凡な句しか遺せず俳句でも心残りと成っている。せめて遺句集に所収することで「友」への「別れ」の挨拶にしたいと思っている。
此で八十六歳の句が二十二句だ。何とか体裁は整うだろう。句作ノートを持った儘手を枕元に投げ出す。ひと区切り付いた処で「疲れたア」と言おうとするが声に成らない。其程迄に疲れたのか、横に成ろうと体を捻るが仰向けに成るのも苦労する。「何だこりゃ」だ。疲れたときは寝るに限る。と、其のとき看護師さんの声だ。
「昼ご飯ですよオ」もうそんな時刻だったのかと改めて根を詰めての選句作業に気が付くが、其よりもお腹が空いていない。此だけ頭を使っているのに如何したのだろうと思っているうちに配膳が始まっている。いつも乍らに看護師さんの動きが速い。
何と昼ご飯を残して仕舞う。此処に来てからご飯を残すのは何食振りだろう。昼のルーティーンのあと横に成るが眠りに就く訳でも無く、天井を見上げぼうっとしている時間はどれ位有っただろうか。頭の疲れで体の鈍さと気持ちが同調して仕舞っている。気に掛かるが自分では如何しようも無い。「神のみぞ知るか」
明らかに寝入っていたようだ。尿意で目が覚める。今日は便所が近いと思い乍ら鈍い儘の体を何とか動かして用を足す。来てくれた看護師さんは普段と変わらず明るく声を掛け私を支えて呉れる。体の儘ならない動きに少し落ち込み気味の私には有難い。ベッドに戻り二冊のノートを手に取り頁を捲る。米寿の祝いが待ち遠しい八十七歳の年を見る。最初に例年催されるAM結社の新年俳句大会に出句した句が目に止まる。
携帯に曾孫微笑む初写真
十二月に私に取って三人目と成る男児が誕生し、元旦に年賀に来た息子の携帯電話に収まる笑顔の赤子の写真を見た感慨を素直に詠んだ句だ。三人の曾孫を授かった喜びを表すには素直過ぎた表現だったと反省する。今思うと、此はより良い句を作ろうとする気力の衰えなのかも知れない。
其と同じように老化が原因と思われることが起きている。一、二、八、九、十二月には遅れてFAXとメモしており、出句の締切日を過ぎ督促を受けてFAXで出句していることが判る。自らの老化を認めるのは胸が苦しく成る。少し休憩しよう。
目覚めると当然のように尿意を催す。先程済ませたにも拘らずもう尿意かと呆れて仕舞う。言うことが利かない体に鞭打ってポータブルトイレに向かうと先程とは違う看護師さんが寄り添って呉れている。
「もう直ぐ晩ご飯ですよ」前の用足しから四時間近く経っていて長い昼寝に驚く。
晩ご飯の準備が始まっている。どうも用足しのあとベッドに戻って又うたた寝をしたようである。其にしても昼位から便所は近いし眠たいし如何しようも無い。「こんな日も有るさ」と句作ノートを床頭台に置く。
晩ご飯も残してしまう。
「あらア、宜しいですか、一寸ご飯の量が多いかしらね」後片付けの看護師さんから優しく声を掛けて貰う。
妻ならば体調を訝り、私を不安にさせるような遣り取りに成る処を患者に心配を掛けないように気を配って呉れている。私も其に応えて深く考えずに眠りに就こうと思う。下手の考え休むに似たりだ。
(七月十五日につづく)