「芭蕉より一茶が好き」33.

(七月二十四日その3・・・選句のテーマが「日常」から「生きとし生ける物」に移って行く。病人であることを忘れ、根を詰めて選句作業を続ける主人公です。)

 
     天気予報今日も狂へり神の留守
 
 天気予報と云うと手作りの天気図を思い出す。ラジオから流れる各地の測候所の気象情報を聞き乍ら、日本列島とその周辺国や島嶼の輪郭だけの白地図に記号や数字を記入し等圧線を書いて天気図を作るのだ。最初に測候所名、続いて風向き、風力、天候、気温、気圧の順だったように記憶するが其をアナウンサーが只々伝える放送だ。時には測候所名の次に「入電ナシ」と言って次の地点に移るときも有り、暴風雨で測候所に行けないとか、担当官が急病に成ったとかで人力に頼っていた時代を感じさせる。そんな訳で天気図は過去の情報で作っていたため予報はあく迄も経験値からの予測であって、測候所の人たちの苦労は顧みず八卦見と揶揄される時代が長く続く。話しが横道に逸れている。
 時代は現代に移り人工衛星からの情報を基に天気図を作る時代に成って、予報の的中精度は隔世の感が有る。処が予報が外れると、やはり天気には神の領域を感じさせる物が未だ未だ有る。詰り天気は天即ち神の気分なのだ。旧暦神無月の此の日、偶々二日続けて天気予報が外れたことを季語の神の留守を上手く使って面白い句にしたと思うが、俳句と言うより風刺の効いた川柳と言った方が良いかも知れない。
 
     ためらはず慣れ親しみし日記買ふ
 
 季語に私の好きな日記買ふを使い平易な言葉を並べただけだが、翌年の手帳を買える喜びを気負わずに詠んでいる。八十二歳の年も暮れて行く。
 
     死後にまで話の及ぶ春炬燵
 
 八十三歳に成る此の年は穏やかに始まる。連れ添って半世紀を優に終えると二人の日常の寛ぎの中にも死と向き合う会話が出るように成る。元句は此の句の三年前の句作である「死後のこと妻と語らふ春炬燵」と記憶している。暦の上では春に成っても未だ未だ肌寒く炬燵が恋しい。居間の炬燵に入り乍ら妻との四方山話がいつの間にか自分達の死んだあとの話題に移っている。そんな春先の一日の昼下りを句にしている。中七から妻を外し、季語の力信じ場所や話し相手を想像させる句に変えている。
 
     デジタルの世にあらがつて蚊遣香
 
 慈悲の考えが全く無いような殺虫剤に対抗して私は蚊取り線香を使うと言っている。此処で言うデジタルは先進技術全般の意味で使っている。しかし厳密に言うと今も昔も自分の棲み家への侵入者には厳しく対処している訳で、昔の蚊取り線香だって何とかと言う除虫菊の殺虫成分が入っている。懐古趣味で御託を並べただけの句に成っているが、新しい技術を片仮名で句作した句と云うことで遺したいと思っている。
 
     肺癌の疑ひ消えて身の涼し
 
 日頃私は能く歩き健康だと思っていたが好事魔多しである。此の年の五月、真夜中の小便途中に突然倒れ救急車で運ばれレントゲン撮影の結果肺癌の疑いが有るとのこと。そして退院後の精密検査で無罪放免に成った喜びを詠んでいる。遺句集に残しておきたい句のひとつだ。
 
     なにひとつ変らぬ暮し冷奴
 
 其の退院後に一句。食卓に坐る私の前には好物の冷奴が出ている。入院前と何ひとつ変わらない平凡な生活に感謝。背景を知らなければ何の変哲も無い句だと思う。此も遺句集に残しておきたい句だ
 
     身に入むや頭に残る手術痕
 
 更に八月から九月に掛けては慢性硬膜下血腫と云う病名で一年に二度目の入院と云う尋常ならざる非日常を体験している。其の後日譚とも言うべき俳句が此だ。
 季節は晩秋と成り毎朝立つ洗面所の鏡を見る度に額の上の方に有る手術のときに出来た傷が目に入る。年波には勝てぬ現実を寂しい思いで詠んでいる。
 
     ちやんちやんこ余生を少しもてあます
     どつぷりと年金暮らし葛湯吹く
 
 年老いて来た自分自身を投影している季語として使うのがちゃんちゃんこだ。のほほんと日常を過ごしているのであれば余生を持て余すとは不心得者なのであろうが、一年に二度の入院のあとの人生観ならば納得戴けるのかも知れない。
 そして収入は年金だけだが現役時代の貯蓄で暮らして行ける有難さと二度の入院から生還した喜びを噛み締め暖かい葛湯を飲む幸福感を上手に表現出来たと思っている。
 さて次のテーマは「生きとし生ける物」で日頃の生活の周辺に居る小さ生き物に心を寄せる句を集める。
 
     花街の昼深閑と梅雨揚羽
 
 昼間の夜の街は夜の賑やかさが嘘のように静まり返っている。歩を進めて行くと途上に出来た水溜り周辺を揚羽蝶が舞っている。下五に六月と春の季語を繋げて六月の季語を作って仕舞った工夫の一句だ。
 
     通し鴨いつも先行く一羽ゐて
 
 名園と謳われ一年に二回しか公開されない全国から参拝者が訪れる神社の庭園を訪れたときの情景を詠んでいる。特別な庭園に居る鴨だから普通の鴨と違うかなと思って見ると、何のことは無い。群れには先導する一羽が居て普通の鴨の群れと同じだと云う句だ。中七のいつもをいずこもにした方が意味は通じ易いが、中七の字余りを避けている。
 面白い発想を補完出来るのが前書きや後書きの良い処だと思う。
 
     鬼の子の垂れて人の世窺へり
 
 此の三年前に作った「蓑虫の垂れて人の世窺へる」を推敲した句だ。鬼の子は蓑虫の子季語なので単に言い換えただけだが、下五は違う。元の句は、蓑虫が世の中を窺っていると言い切っている。其に対して推敲後は、窺っているように私には見えると擬人化をぎりぎりの所で踏み止まっている。
 
     自刃せし武将の墓に蚊の名残り
 
 遺跡や墓地で季節外れの蚊に出会すと此の世に未練を残す人たちの化身ではないかと考えて仕舞う。AM結社の吟旅で地方都市に有る戦国武将の立派だったであろう館跡、庭園跡や墓所を訪れた際に詠んでいる。
 其の墓所は戦に追われ自軍の負けを悟った大将が、残った家臣に介錯され切腹した場所と縁起に有る。私を刺した蚊は最期迄大将を守った家臣の化身なのかは知る由も無いが、寄らば斬るの気魄が小さな蚊に漲っていたように思えてならない。
 
     街道の峠の茶屋に恋の猫
 
 雪融けが進むと人も動物も昆虫も植物も春の息吹を感じ活動が盛んに成る。世に倣い私も春に成ると、より行動範囲を拡げ様々な場所に出掛ける。八十一歳に成りいつもの旧街道を歩く会でのひとコマだ。
 俳句を始めたての頃は、初めて目にした季語や洒落た言い回しの季語に興味津々で暇さえ有れば歳時記を眺め、出会う度に句作した物だ。其のひとつが発情期の猫を指す猫の恋である。年中何処にでも居る野良猫だと季語に成らないが、年に一度恋の相手を探す猫は春の季語に成る処に四季の変化に寄り添う俳句の奥深さを感じる。
 山間いの峠の茶屋に赤子が泣くように鳴いている飼い猫を見付け、私も猫と同じだなと面白可笑しく詠んだのを思い出す。
 
     南無や南無跳ねる白魚踊り食ひ
 
 生きとし生ける物を愛おしいと思う傍らで生きた儘其を食べて仕舞うと云う悪行を平気で出来る私。しかもせめてもの償いと許に仏に縋る私。一体全体私は何者なのだろうと云う思いを句に託している。
 食べ物の話しが出るとお腹が空いて来る。そろそろ晩ご飯ではないかなと思い乍ら次の句を見て行く。
 
     蟷螂の怒り誘つてしまひけり
 
 歩いていて存在に気が付かず蹴飛ばしたかして驚かしたようだ。かまきりは怒り心頭かも知れないが踏み潰されなかっただけでもめっけ物だと思って矛を収めてねと云う思いで詠んでいる。
「お待たせしました、晩ご飯です」看護師さんの声で待ってましたと許床頭台に自撰百句とゴルフ鉛筆を置くと、晩ご飯が早や目の前に運ばれている。「晩ご飯を食べ終わったら又選句作業だ」と思ったのはお腹が膨れる前の話しだ。今日一日時間を忘れての選句で流石に疲れている。

(七月二十五日につづく) 

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