「芭蕉より一茶が好き」34.

(七月二十五日その1・・・テーマは「生きとし生ける物」から「戦中派・反戦」、「思慕・望郷」へと続きます。殊に昭和二年生まれで戦中派の主人公の反戦への思いは強く俳句にも表われています。)

七月二十五日
 尿意と共に目覚める。此処数日夢も見ず熟睡しているが体力が回復している訳では無いようだ。其の証拠にポータブルトイレへの足取りは更に不安だらけに成っている。来て呉れる看護師さんとの会話に気を回す余裕無く全力で往き来する。 其の不安が選句作業を急がせるのか、ベッドに戻るや否や自撰百句に手が伸びている。次は満八十二歳のときからだ。
 
     あめんぼう五重の塔の影を蹴り
 
 あめんぼうを観察すると確かに水馬だからか馬に似た仕草をする。毎月弘法大師の命日に露店が出る名刹でのひとコマで、境内の隅に出来ている水溜りに何処から来たかあめんぼう。其が器用に水面を滑っている。近付いて能く見ると水溜りに国宝の五重塔が映っており、あめんぼうが五重塔を蹴飛ばしているように見えたのである。
 
     凍蝶の風に吹かれて影持たず
 
 蝶が成虫に成ってからの寿命は蟬程に無いにしても短い。中には秋に生まれる蝶もいて個体によっては冬を越すが、冬に寿命が尽きる蝶は多い。其が凍て蝶であり、此迄も多くの俳人が心を寄せて詠んでいる。私も例に漏れず、弱弱しく飛ぶ凍て蝶に出会うと満八十三歳に成る自分と重ね合わせ生の儚さを感じて仕舞う。いつもの散歩道は日中なのに陽も射していない。木枯らしに抗うことも出来ず吹き飛ばされて行く冬の蝶を見たとき、丸で実像が無くなったかのように蝶の影すらも無い。自然界の摂理とは言え悲しさを憶える思いを句に込めている。
 
     源氏螢平家螢と争はず
 
 敢えて同じ季語を固有名詞に乗せて並べている。季重なりの是非は兎も角も、生物学的には源氏螢と平家螢は幼虫のときから棲む場所も食べる物も違う上、成虫での活動時期も源氏螢は六月下旬頃迄で平家螢は七月上旬以降と違っている。加えて、源氏螢は日本だけに生息する固有種で平家螢は外来種だし、光り方は源氏螢の方が明るく、飛び方は直線的な平家螢に対して源氏螢は曲線的らしい。此をテレビ番組で知り、知っていて損の無い知識だよとひけらかした面白い一句だと思う。
 齢を重ねると何事も自分中心に成るのか「生きとし生ける物」への関心事が減るのか此処迄で終わりだ。次は「戦中派・反戦」だ。戦中派としての苦い経験を詠んだ句や平和を願う句だ。選ぶだけでも力が入る。
 
     世にいくさ絶えずアンネの薔薇乱る
 
 あのアンネ・フランクの悲劇を繰り返さないと云う思いを込めて品種改良された「アンネの薔薇」が、今も世界の何処かで起こっている戦争を嘆き悲しむように咲き乱れている様を読んでおり、正に反戦の句である。
 
     神なりし白馬の天子敗戦忌
 
 毎年八月十五日が近付くと反戦の気概を込めて句作する。天皇は神の子であると国民に集団催眠を掛けた軍部に憤りを感じる。
 
     夏旺ん赤黒のみの原爆図
 
 自分の視界に赤い色と黒い色しか無かった一瞬を絵の作者は経験したのだろう。そんな惨たらしい光景を生み出したのも同じ人間であり、二度と遣ってはならない所業であるとの思いを込めている。
 
     B29の爆音耳朶に爆忌来る
 
 びーにじゅうくは、第二次世界大戦末期にアメリカがドイツや日本の軍需産業や都市を攻撃するために投入した大型爆撃機の日本に於ける通称である。当時の技術の粋を集めた此の空の城塞は遥か一万メートルの上空から爆弾を投下し、広島、長崎は元より日本の都市を焦土と化し、軍需工場や建物の消失のみならず多くの非戦闘員の命を奪う。
 毎年八月に入り広島と長崎の原爆忌が近く成ると、原子爆弾を搭載し飛来したB29のエンジンの凄まじい爆音が聞こえて来るように思えるのは私だけだろうか。
 
     敗戦の日や我が長き影法師
 
 無条件降伏に拠って戦争が終わった安堵感よりも、多くの尊い命を失った戦争に対する虚無感が去来した八月十五日。亡くなった人達の無念を自分ひとりで背負っているように感じた物だ。我が長き影法師で上手く表せたと思う。
 
     開戦日朕の赤子と言はれたる
 
 赤子とは生まれて間も無い子を意味するのは言う迄も無い。此をあかごではなくせきしと読んだ時代が有ったのを知っている人の大半は既に鬼籍に入っている。
 戦前の日本には軍部に都合の良い造語や古典から引っ張り出した言葉が街中に溢れている。各々を説明する気には成れないが、八紘一宇、大東亜共栄圏、挙国一致、報国、醜の御楯、銃後の守り、非国民、神風、軍神であり、せきしもそのひとつ。国民は朕のせきしだと言う。言葉巧みに天皇と国民の関係を親子に見立て、親である天皇のために国民が犠牲を払うと云う忌まわしき風潮を作り出し、結果多くの命が奪われたのである。其の軍部への恨み辛みを句に込めている。
 
     硝煙の消えぬ人の世敗戦忌
 
 ひとりの戦中派の嘆きである。
世界中の何処かで火薬が燃えた煙と臭いが未だに立ち込めている。世界的規模で二回も戦争を引き起こし、人は反省をした筈なのに懲りずに戦時下の地域が在る。いい加減に目を覚ませと云う思いだ。
 
     針のなき被爆の時計ひろしま忌
 
 戦争の記憶は年を追う毎に薄れる処か寧ろ濃く成っている。此は沖縄慰霊の日、二つの原爆忌、終戦の日、開戦日には改めて当時の私の行動や思いを振り返ったり、其の後の原爆資料館訪問や数々の記録本、体験談やドキュメンタリー番組を見聞きする機会が増えているからであろう。其は多少なり共戦争に関わった私だからであって、戦争を知らない世代には年々薄れるのは致し方無いことかも知れない。しかし、戦火に見舞われないと戦争の悲惨さが判らないでは情け無い。だから微力ではあるが、どんなに下手糞であろうが出来るだけ多くの反戦句を作り続けようと思うのだ。
 
     飯盒で飯炊く八月十五日
 
 飯盒で食事の準備をしていた独身時代。其の度に降伏したと聞いたあの日を思い出していた物だ。敗けた悔しさと空襲からの解放感とが綯い交ぜに押し寄せて来た八月十五日が毎年遣って来る。
「昼ご飯です」又食べ物の句に合せてご飯の時刻に成る。
 昼のルーティーンのあと用を足す。此だけ動きが鈍く成ると選句作業も現実では無く夢の中で遣っているのではないかと疑って仕舞うが、自撰百句を見る限りはしっかり印を付けている。続けよう。
 
     十二月八日仏壇開けておく
 
 最近は新聞に太平洋戦争が始まったこの日に成っても太平洋戦争の記事が全く無い年が有る。世の中から戦争の恐怖が無くなっていれば其で良しだが然うは行かない。私の家では幸いにして戦争の惨禍で命を落とした者はいないが、此の日は愚かな戦争は起こしてはならないと云う反戦の願いを込めて仏壇を開け、祈りを捧げている。
 続いては「思慕・郷愁」が良いかな。両親や故郷への思いや若かりし頃を詠んだ句である。
 
     墓の草引けばはは来るちちの来る
 
 歳を取ると墓の夢を見る機会が増える。墓の草の句も其の一場面である。子どもの私がひとりで墓参りに来ていると、暫くして両親が遣って来て一緒に墓掃除を始める。夢の中の子どもだから平仮名にし、元句では「引けばちち来るははの来る」を父には申し訳無いが会いたい度合いで入れ替えている。結果的に声に出したときの読み易さも良く成り推敲が上手く出来た句だ。
 
     父よりもいのち永らへ豆を撒く
 
 非業の死を遂げた父の年齢を超え長生き出来ていることに感謝し乍ら豆を撒く情景を詠んでいる。今が有るのも両親が私を産み育てて呉れたからこその有難みである。
 
     母の日を母在す頃知らざりし
     父の日を忘れずにゐる息子ゐて
 
 両親が存命のときは母の日も父の日も知らなかった私。だから其の日に感謝の気持ちを伝えたことも無い。其を悔いるかのように其の日近く成ると両親に思いを馳せ句作して来たが、私や妻が子から感謝される立場にいつの間にか代わっている。勿論、息子ゐての句は「家族」がテーマでもある。
 
     零余子飯むかし農家の子沢山
 
 今でこそむかごは自然食として栄養価の高い食べ物と位置付けられているが、昭和二年生まれの私に取っては昭和初期の農村恐慌を思い出させる食べ物だ。
 老人大学のサークル仲間が集う歴史探訪の会で山の中の古道を歩いたとき、久し振りに円い豆状のむかごを道端に見付け幼い頃を回想して詠んでいる。米を買う余裕の無い農家では、子の空腹を満たすため山中に自生している山芋類のむかごを取って来ては米に混ぜて炊いて食卓に出した物だ。懐かしくも苦い思い出である。

(七月二十五日その2につづく)

いいなと思ったら応援しよう!