「芭蕉より一茶が好き」31.

(自撰百句からの選句に益々エンジンを掛ける主人公です。七月二十四日は間違いなく3回に分けて投稿します。)

七月二十四日
 もう朝だ。目覚めるとブラインドの外は明るく成っている。昨日の夜を思い出そうとするが中々思い出せない。その代わりにふと「外は暑いだろうに私は布団を掛けている。余程部屋の温度を上手く調節してるんだな」そんなことを考えている。
 ベッドにぶら下がるリモコンでベッドを起こし坐る体勢にして居住まいを正すと昨夜のことを思い出して来る。「然うだ、直ぐ寝たんだ」
 朝ご飯のあと用も足し、早速昨日の続きに取り掛かる。八十二歳の年の「歩く」テーマもあと少しだった筈だ。
 
     朝寒の羅漢にひと声掛けにけり
 
 此もAM結社分科会の定例吟行での句作だが、其にしても此の気の置けない句友仲間で作る隔月の定例吟行会は切磋琢磨の為せる技か良い句が生まれる。其の句を俳誌KMの兼題「朝寒」の誌上句会に投句し高評価を戴いている。
 各地に残る五百羅漢や十六羅漢の中には亡父に似た羅漢が居り、出会う度に親近感を憶える。晩秋の朝未だ暗い時刻から出掛けた此の日も、寺の参道に散らばる羅漢に亡父似の羅漢を見付け思わず朝の挨拶を軽く交わした次第。挨拶と同時に吐き出された息が少し白かったのを思い出す。
此で八十二歳の年が終わる。次の年に行こうと翌年の自撰百句を手に取っている。
 
     春立つや百号の絵に喪のリボン
 
 年も改まり満八十三歳に成り、AM結社の主宰と才能溢れる句友から高評価を得た句だが、白状すると此の句には実は嘘が有り恐縮至極に尽きる。
毎年鑑賞する美術展で畳一枚大の百号の絵を目にした光景を詠んでいる。大きさだけでも迫力が有る上に何と喪章が掲げられているではないか。絵が飾られた部屋に入ると否が応でも目を奪われる。此の美術展は毎年開催され、書画や陶芸を志す人達に取って入選と云う評価を得て社会的地位を確立する恰好の場と成っている。そんな伝統有る美術展に入選するために全身全霊を傾け力尽きた此の画家に敬意を表したのが「初春や百号の絵に喪の記章」と「冬深し百号の絵に喪のリボン」の二句だ。
 翌二月に開催された定例句会に出句を検討した際、二つの句を合体し季語を載せ替えたのである。詰り季語が嘘なのだ。高評価を戴いたときは面映ゆい思いだったのが忘れられない。
 
     二ン月の雲の動きのただならぬ
 
 あれは節分会の豆撒きを見に行って数日経った二月上旬だったと思う。其の日は寒い日だったがいつものように散策に出掛ける。すると途中から雲行きが怪しく成り、暦の上では春に成ったと言うのに雪が舞い始めたと云う出来事を詠んでいる。
 二月を二ン月と読ませている句は何句か作っているが、此には賛否両論有って、あく迄も音合わせの俗用だから使わない方が良いとの意見が有ったり、新語や俗用は取り入れても問題無いなど様々だ。現代では旧暦の月名をその儘新暦の月に充てて使うことが多く二ン月では無く如月でも良かったかも知れないが、如月だと新暦の二月下旬から四月上旬と考えられるのを避けて二月としたのだが此も各人の考え方次第と云う処か。
「お早うございます」看護師さんが代わったようだ。今日の午後にでも体を拭こうかとの提案だ。然う言われると何と無く体が臭う気がする。昨日お尻を綺麗に拭けなかったかなと思い出すと余計に気に掛かる。
 しかし臭う体とは裏腹に選句作業への意欲は衰えない。最初の句が気持ちをより晴やかにして呉れる。
 
     佇みて花菜畠の黄に染まる
 
 黄色い花を咲かせる代表格はと聞かれたら何と答えるだろうか。四季それぞれに思い浮かべる花が有り、秋ならば日本の代表的な花の菊であり、夏ならば向日葵、冬ならば臘梅だが、春は連翹も有るし蒲公英、山吹、三椏も有って迷う。恐らく私は小学校唱歌の「菜の花畠に入日薄れ」の印象が色濃いのか、或いは群生している色の鮮やかさが脳裏に焼き付いているからか菜の花と答えるだろう。その刺激的な黄色をその儘句にしたのである。そして更に気持ちが高鳴る句が続く。
 
     シヤツの背に一球入魂夏に入る
 
 早い地域は毎年六月下旬に成ると始まる夏の甲子園の地方予選。全国の高校の野球部員が目指す深紅の大優勝旗を巡る熱い戦いの火蓋が切られる。地方予選の一回戦から本選の決勝戦迄負けたら終わりのトーナメント方式が持つ緊張感が最大の魅力なのだろう。斯く言う私もそれに魅せられたひとりであり、大会歌の「栄冠は君に輝く」を聞くだけで目が潤んで来る。
 そんな高校野球好きの私がいつものように散歩に出掛け、一球入魂と云う文字をプリントしたTシャツを着た若者に遭遇する。即座に高校野球と結び付く秀逸な造語に拠り、今年も愈々地方予選が始まるのかと心が躍る瞬間である。そんな思いを上手く表した一句に成ったと思っている。因みに、今から二十年程前に俳句甲子園と云う俳句コンテストが夏の高校野球シーズンに合わせて開催され、私も二度入選した事が有る。今でも諳んじることが出来る二句で、「また来るぞ甲子園の土握りしめ」と「一球を追うて球児の夏旺ん」だが、其のコンテストが三年で幕を閉じたのは残念の一語に尽きる。
 
     梅雨茫茫大橋薄き眉ほどに
 
 AM結社分科会の定例吟行の此の日は余程行いが悪かったのだろう。観念せざるを得ない程に、突然の梅雨前線の活動に当たって仕舞い予期せぬ雨宿り。日本一の湖に唯一架かる大橋が降り頻る大粒の雨に煙っている。しかし天の助け、否俳句の神様の助けか、雨の度合いを茫茫に、雨に煙る大橋を薄き眉に託し良い句に仕上がったと思っている。
 
     毛の薄くなつて離せぬ夏帽子
 
 中七が気に入って戴けたのか、AM結社主宰の選に入っている。
帽子が季語に入っているのは冬の冬帽と夏はこの夏帽子だ。冬帽には背中を丸めて寒さに堪える印象が強いが、夏帽子には暑さにも負けず元気に歩いている様子が浮かんで来るのは私だけだろうか。紛れも無く此の句は、頭が禿げても帽子を被って熱い中を頑張って歩いているよと誇らしげに伝えたく成り句作している。
 
     青田波近江の秋を疑はず
     毒茸ひとりが蹴ればみんな蹴る
     一竿の稲架一枚の棚田中
 
 一年に二度の入院から復活し吟行に出掛ける喜びが句作にも表れており、初心に帰って肩肘の力も抜けている。其々秋が色濃い。
 青田波の句は、昼は湖から夜は山から吹く近江独特の風に稔りを待つ稲が戦いでいる。紛れも無く秋だなと云う感慨を詠んでいる。
 毒茸の句は、古刹を目指す山道での出来事をAM結社の主宰宜しく軽妙に詠んでいる。如何しても悪役に成って仕舞う毒茸に対して申し訳無さのお詫びを込めた積りではある。
 棚田中の句は、猫の額程の広さの田圃にも刈り入れを終えた収穫の秋が来ている。そんな棚田を愛おしんでいる。

(七月二十四日その2につづく)

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