「芭蕉より一茶が好き」21.
(久し振りに夢を見た主人公。一方で選句は順調に進む。七月十四日は3回に分かれます。)
七月十四日
《母が居る。妻も居る。
青林檎が載る卓袱台を挟んで坐る二人が険悪な雰囲気で会話している。
しかし声が聞こえない。
嫁姑争ふ卓の青林檎
何だ、私の声じゃないか。句を詠んだ。目を凝らすと母も妻も若い。
あのときの光景ではないか。
其のあと二人は微動だにしなくなった。私には何も聞こえて来なく成
った。》
目を開けて部屋全体を見回すと未だ暗い。夜明け前だなと思い乍ら夢のことを考える。
あの場面はもう七十年近く前、実際に有った出来事である。そして夢の中で詠んだ句も此の出来事の直ぐあとのOK句会で披瀝した句だ。過去の二つの現実が夢と成って私の前に現れた訳だ。あの場面に至った経緯は当時聞いたと思うが憶えていない。しかしあの険悪な二人の光景は疲れて仕事から帰宅した私に強烈な印象を与えたのは言うまでも無い。着ていた汗だくの開襟シャツの釦を二人に背を向けて無言で外したのを鮮明に思い出す。
私が結婚したのは会社に入って六年、俳句と出会って五年経った二十六歳のとき。仕事でも俳句でも面白さと難しさの両面を経験しひと山越えた頃だ。
新居は一軒家の二階だった。一階に後家さんの大家さんがひとりで住み、私達は二階の貸間だった。新婚なのに貸間なの、と思うかも知れないが今のように賃貸住宅が街中に溢れている時代では無かったし、況してや一軒家を丸ごと借りることなど出来ない安月給の身の上であった。
そんな新居に実況検分宜しく母が来ると言う。仕事を終え二人が待つ家に帰ると新しく「家族」と成った気丈夫な母と気の強い妻のあの場面に遭遇する。私は何方の肩を持つことも出来ず黙って静観するしか無かった。
下っ腹の辺りが痒い。
入院してから暫くは痒みらしい痒みを感じなかったが、大昔の懐かしくも忘れられない場面が痒みを連れて来たのかも知れない。入院前の苦しみが甦る。「余り搔かないようにしよう」と思うものの其でも体を捻り乍ら掻いていると尿意を催す。読書灯を点け、上掛けを撥ね退け右脚をベッドの外に投げ出すが動作が昨日に比べて如何も鈍い。
図星である。ベッドの横に立った感触も良くない。取り敢えず左手をベッドに突き一歩足を前に出すが覚束ない。そろりそろりと歩を進めるが、ポータブルトイレに辿り着く前に看護師さんが顔を出す。
「早いですね、大丈夫ですか」看護師さんが見れば私の動作が鈍いと云うのがひと目で判るのであろう、声に気遣いを感じる。
「間に合いますか」大丈夫だと言いたいが声に成らないので笑顔を返す。
「判りました、頑張りましょうね」看護師さんは便座の蓋を開けて私を待って呉れる。
成る程、目は口程に物を言うとは斯う言うことだと思い乍ら粗相をする前に何とかポータブルトイレに坐る。するとおしっこだけで無くお通じも有るではないか。図らずも快便の感触を味わい、先程からの体の不調が便と共に解消されたような気分に成る。お礼の言葉も先程から一変して口を吐く。「有難う」人の体は現金な物だ。
「はあい、能く出来ましたねエ」幼子に語り掛けるように優しい言葉が返って来る。
「朝食までもう少しお待ち下さいネ」ベッドに戻り再び「有難う」と応えると、未だ読書灯が必要な夜明け前からもう俳句ノートに手が伸びている。
吟行の句で始まる七年前の出句をざっと見る。句数は例年通りで余り変わらないように思えるが、印を付けたりやメモを書いたりしている句が明らかに少ない上に如何にも過去の推敲句が多い。しかも十二月のメモに「催促でファックス」と有り、締切日を過ぎて督促を受けていることが判る。納得の行く句作が出来ないことに加えて老化に拠る忘れも手伝ったと認めざるを得ない。六月に出句した句が目に止まる。
母の日や母の強きを疑はず
今朝の夢で見たあの場面を六十年後に記憶を辿り詠んだ句だが見事にずぼらを見抜かれ其なりの評価に終わっている。
今見ると限られた字数なのに母を二度使っている点と、中七の母が一般的な母親を指すのか私の母を指すのかが読み取り辛い。推敲の余地は此処に有ると思う。上五に固有名詞かつ季語である母の日を使うのであれば、中七には妣を使った方が私の亡くなった母と理解出来るのではと思う。
然う考えると句作する上で臨場感は大事だなと痛切に感じる。あの場面に遭遇し直後に句作した青林檎の句と六十年後の母の日の句との違いは大きい。因みに青林檎の句は、何万句と有る自作句の中で唯一の母と妻を一緒に詠んだ句であり、遺句集には「家族」をテーマとした句として遺したいと思う。改めて一月からじっくり見て行く。
茫茫と平城宮跡北風募る
老人大学のサークルの中に日帰り出来る旧街道を歩こうと云う会が有り、長年参加している。其の会で奈良方面に行ったときに詠んだ句である。北風(きた)の強さと冷たさを茫茫というオノマトペで巧く表現出来ていると評価して戴いたように思う。地元を離れて「歩く」ことで句材を得て良い句に成っている。そして此の句は七十年の歴史有るKM結社の十冊目の記念句集に掲載された上に、同時に記念に作られた俳句手帖にも新年の句のひとつとして所収されている。
其のあと二月から五月迄高評価を得た句は無く、発想の枯渇が現実の物と成った感が有る。一方身の周りの出来事では何人かの大事な友を見送っている。三月には八十六歳で亡くなった旧制中学からの旧友の葬儀の一場面を詠んだ句が有る。
葬儀所に流るる寮歌春寒し
彼には名前にまつわる逸話が有る。
彼は旧制中学在籍中に進学調書のため戸籍謄本を取って初めて、慣れ親しんで来た自分の名が読みも漢字も戸籍謄本と違っていたことを知ったのである。出生届けの書類に誤字が有ったのか判読し辛かったのか知る由も無いが、親から「お前はミキオ、字は幹夫だよ」と教えられていたにも拘わらず謄本には幹太と書いて有ったらしい。如何読んでもカンタとしか読めないので、本人は若しかすると自分は貰い子で戸籍の無い子かも知れないとか色々悩み抜いた挙句、担任教諭に相談したと言う。教諭の回答は実に目から鱗だったと本人は述懐している。「字は戸籍通りにして、読みは親御さんから教えて貰った通りの読みで問題無い」と云う物だったそうだ。以来旧友は、幹太と書いて読みはミキオを貫いたのである。
そして九月に成ると旧工専時代の同人誌仲間が、十二月には今の自宅を購入するときに銀行で借りた資金の保証人に迄成って戴き退職後も麻雀やゴルフを楽しんだ三歳上の職場の先輩が鬼籍に入っている。私の心に彼らの死が大きな穴を開けたのは言う迄も無い。
ぼんやりと彼らの有りし日の笑顔が頭に浮かぶ。一旦顔を上げ、目を窓の方に移すと少し白んで来たようだが未だ読書灯無しで読める明るさでは無い。次を見る。七月に平和を祈る俳句大会で七年振りに賞を戴いている。
爆心地に市電の軋むひろしま忌
記憶に拠ると此の句の五年前に同じ俳句大会に投句した句を推敲している。七十七歳の年から此の俳句大会には選者を仰せ付かっている関係上、賞を戴くのは気が引けていたがいざ戴けると成ると嬉しい物である。
扇状地ならではの地形の広島市に有って、T字型であるが故に原爆投下の目標と成って仕舞った相生橋。其処を路面電車が原爆投下当時も、そして今もレールと車輪が擦れる金属音を立てて渡っている。あの同じ時刻に日本の別の場所にいた私は生き永らえ、一方で偶々相生橋に居た人々は一瞬にして命を奪われている。此のような不条理が有って良いのだろうかと悲しみが募ると同時に、戦争を招いた国の指導者に憤りを覚えるのだ。上五に助詞のにを置くことで過去も現在もと云う意味を強調することが出来、字余りを感じさせないと思っている。次に読み進めると、同じ七月の俳誌KMに出句したが評価されなかった句が目に止まる。良好な「家族」関係を詠んだ句として遺して措きたい句である。
(七月十四日その2につづく)