「芭蕉より一茶が好き」16.
(七月十一日その2・・・選句していくうちに両親の思い出に浸る主人公です。)
父の人生は実母が父を身籠っていたにも拘わらず婚家から離縁されて始まったと言って良いだろう。正に其の後の人生を暗示するかのような出来事だった。実家に戻った実母は離縁からひと月も経たぬうちに父を出産するものの、父が一歳の誕生日を迎えた翌月に三十歳の若さで此の世を去っている。父無し子に加え実母とも死別した父は実母方の叔父夫婦に育てられたが、御多分に漏れず青年期迄世間の冷たい風に晒された。
しかし人の世は捨てる神在れば拾う神在りで、父が二十七歳のとき私の祖母が生真面目に働く父の姿を見初め愛娘の婿養子に白羽の矢を立てたのだった。やっとひと筋の光明が見えた父は実母の家との縁を切り婚家の婿養子として新たな人生の再出発を切った。
一方母は当時の田舎の女子としては珍しく高等小学校の教育を受け、男子のいない家系の長女として自分の母親が見初めた父と結婚した。以来父の傍には気丈夫で教育に熱心な母がいつも居て、人の道を踏み外さず清貧を貫き半世紀の長きに亘り愚直に添い遂げるのである。生活は決して裕福では無かったが三人の子の教育を疎かにせず、良く出来た長兄に師範学校、長女に高等小学校、次兄が早逝したあと三男の私に有難くも望み通り旧制専門学校迄通わせて呉れた。
私が尋常小学校二年生のときだった。当時農村不況の余波を受け家業の食堂の商売に暗雲が立ち込め、元々客商売の才覚が乏しかった父は元来の器用さを活かし副業として瓦を葺く仕事で生計を立てていたが、折からの台風災害の復興需要に乗じ食堂を畳む一大決心をし、より瓦職人の需要の有る都会に出るべく代々住み慣れた家も売り払い背水の陣を敷いて一家で郷里を離れたのである。
父の頑張りも有って両親の思惑通り一家は潤った。しかし其も十年続かず復興需要が落ち着くと徐々に仕事も減り、酒で憂さ晴らしすることも増えた上に太平洋戦争の開戦が追い打ちを掛け、遂には父の仕事が無く成り再び苦境に立ったのである。其処で両親の出した答えが縁者を頼り郷里に戻り田畑を借り自給自足の慎ましい日々を送ることだった。そして貧しくとも生真面目に平穏な二十数年を過ごした二人は過酷な人生の終盤を迎えることに成る。
不幸は母から始まった。母は若い頃から頭痛持ちであとから思えば高血圧症だったのだろう、其が原因で脳梗塞を二度も発症したのである。一度目は後遺症も軽く不幸中の幸いだったが流石に二度目と成ると下半身に重い障碍が残り、便所に行ったり風呂に入ったりするのに一度土間に降りなければいけない茅葺き屋根の住まいでの生活は続けることが出来無かった。其の結果として兄と私の子ども側の事情に拠り夫婦が別れ別れの生活を余儀無くされ、其に抗うかのように離れ離れに成った最初の正月に父の衝撃の死がもたらされたのだった。
兄一家と同居した父は、年も明け屠蘇気分で好きな酒を飲んでいるうちに兄と口論に成り、夜遅くなってから友人の家に行くと言って兄の家を出た。郷里近くの急行の停まる駅まで行き駅近くを流れる小川の河原で草を褥に、薄く積った雪を布団にして七十八年に亘る波乱万丈の生涯を閉じたのである。凍死だった。そして父と二十二歳で結婚して五十二年間苦楽を共にした母は父の非業の死から六年後の秋九月に満八十歳で下半身不随の儘他界することに成る。
斯うして二人の人生を振り返っていると夫婦の別居が父の死を早めたと思うし、母の晩年を寂しい物にして仕舞ったと息子として悔やまれる。と同時に二人の死に際して其のときの心情を詠んでいればどんな惜別の句を残しただろうかと思うが、丁度二人が亡くなった頃は俳句から距離を置いていた時期であり詮無きことである。其だけに句作を再開してからは両親への思いを俳句に込めて詠んだ句は多い。句作ノートの選句を中断して第一句集から両親への「思慕」の句を探す。
炭をつぐ母の手皺の深まれり
かたくなな父ゐて榾の燃えさかる
雪こんこん老父一徹の語を捨てず
両親の生前、社会人に成って両親の有難味を判り始めた二十三歳から二十五歳に掛けての独身時代に詠んだ句が三句。貧しさの中に在っても懸命に育てて呉れた二人の生き様を寒さに耐える冬に重ね合わせて詠んでいる。
第二句集も手に取り「確か父の三十三回忌法要のときに詠んだ句が有る筈」と頁を繰って見る。「有った有った、此此」
父の忌や墓石に春の雪帽子
亡くなったときも雪に塗れ、恐らく自分が弔う年忌法要では最後に成るであろう三十三回忌の節目の日も墓石に雪を乗せているとは余程雪に縁が有るのだろう。しかし返す返すも幾ら酩酊状態だったにしても凍死は切な過ぎる。私の頭の中には父の傍にいつも二級酒といこいが有った記憶が有る。だからせめて最後位は此の二つを枕元に置いて畳の上で看取りたかったと今でも痛切に思う。次いで第二句集から母の句も探す。
露けしや母の三十三回忌
句集の終りの方の「母の忌三句」と前書きした句のうちの一句で、父の三十三回忌の六年後の母の三十三回忌のときの句である。季語と行事の名だけを並べた何の変哲も無い句だが露けしに切れ字を使い万感の思いを籠めている。母に対しては、リハビリが無理にしても車椅子が使えたり老人福祉施設にせめて通えるような環境を作り単調な生活に息抜きの場を作って挙げることが出来無かったかと今更乍ら思う。
一般的に年忌法要は三十三回忌が最後と言われている中で両親の三十三回忌を自分で仕切ることが出来、半世紀前の両親を別居させた親不孝の罪滅ぼしが出来たように思うのは独り善がりだろうか。
「はあい、体温と血圧を測りましょうね」いつの間にか夕方の巡回の時間だ。
両親のことに成ると如何しても気持ちが入って仕舞う。
「わあ、凄いですね」布団の上の句集と句作ノートを見て驚いた様子の看護師さんに笑顔で返す。
「はあい、大丈夫ですね」目を細め乍ら記録を付けて隣の患者さんの方に移って行った。
晩ご飯前に選句の続きをしようと思っては見たものの両親の思い出に浸り過ぎて其の気に成れない。「まあ良いや、のんびりで」と思い直し晩ご飯を戴き夜のルーティーンを熟すと早くも寝る態勢万全だ。
(七月十二日につづく)