「芭蕉より一茶が好き」14.

(正月の家族との団欒で投稿が遅くなりました。七月十日その2です。主人公の遺句集編纂の準備は着々と進む。)

 突然閃く。でも待てよ、息子が部屋の整理をして呉れていると言うから駄目でも頼んで見るか。震える手で「乞う、自選百句」とメモを認める。
 昼ご飯のあと、食後のルーティーンに来て呉れた看護師さんにメモを託す。前の伝言のときは電話して呉れたようだが今日は如何だろう。しかし伝言が早く届いた処で家の方で自撰百句を直ぐ見付けることが出来るかどうかも怪しい。少々時間が掛かっても致し方無しと諦め、句作ノートの続きを眺める。
 頁を進めると句作ノートの決め事の日付が書かれていないのに気付く。仕方が無いので句作の年月を季語で想像することにする。そして遂にはノートの半分も行かない所で終わって仕舞いあとは白い頁が続く。「こんな状態で遺句集が作れるのだろうか」と再び落ち込むが直ぐに頭が切り替わる。「こんな状態だからこそ遺句集だろう、物は考えようだ」と思い直す。私の得意技である。
 次に遺句集の纏め方を如何するかだ。此迄の二冊は句作年月の古い句から新しい句へと年代順に並べるオーソドックスな構成だったが違う方法はないだろうか。「季寄せも有りかも知れない」「テーマ毎に分けるのも手かな」「例えば友や父母との別れだとか妻も良いよね」「老いも外せないな」何と無く季寄せよりもテーマ毎の方が私らしいと思い始める。前書きや後書きを全ての句に付けるのは如何だろう。「面白そうだ」テーマに拠っては二冊の句集に所収済みの句や句作年月が古くても所収するのも良いかな。「別れ」と「妻」と「老い」の三つはテーマにしようと震える手でメモ用紙に何とか書き留める。字を書いていて「この調子だと句が浮かんでも書いてる内に忘れるぞ」と思って仕舞う。
 何だか疲れを感じる。頭を遣った所為だろうとメモ用紙とゴルフ鉛筆をスライドテーブルに置き足元の方に押し遣る。
 
 
 《私はネクタイを締め背広の上着を自分の椅子の背凭れに掛けて坐って
 いる。目の前には同じように背広姿の人物が立って私に話し掛けているよ
 うに見える。場所は机の配置を見ると単身赴任していた頃の事務所だろ
 う、如何も仕事中のようだ。二人の様子からすると上司の私が部下から
 報告か相談を受けているようだ。
 
      計画の数字埋らず春寒き
 
  突然私の口から俳句が飛び出した。仕事中なのに俳句を口遊むなんて不
 謹慎ではないかと思ったが間違いなく俳句だ。季語からすると季節は二月
 か三月か。
 
      花ふくらむ雨に期末の安らげず
 
  又詠んだ。期末と言っているからやはり三月だ。しかも予算未達のよう
 だ。其は私も責任者として苦しい筈だ。だから俳句で現実逃避なのか。
 「部長、如何かしましたか」》
 
 
「そろそろ晩ご飯ですよう」看護師さんの声で目が覚める。目を瞬かせてさっき見た夢をなぞって見る。
 夢の場面は営業責任者として単身赴任していた五十歳前後の頃で、何期か続いて予算未達と云う仕事上で悶々としていた時期と句作を再開したものの然う易々と秀句が作れず行き詰っていた時期が重なっていたと記憶している。其にしても四十年も前の殆ど忘れていたことを夢に見るとは余程苦しかったのだろうと思うが、夢のように仕事の中に詩情が少しでも有れば予算未達でも悩むことは無かったかもと今に成って思う。
 目の間に晩ご飯が配膳された処で、そろそろ普通食に戻って欲しいなと思い乍ら丼の蓋を開けると残念乍ら全粥だ。入院中の楽しみのひとつに食事が有るが全粥は少し淋しい。其でも晩ご飯を美味しく戴き、早や纏め方の続きを考えている。
 見た夢が気に掛かる。仕事をテーマに詠むことが少なかった私だが、句作ノートで再度間違いが無いかを確認しないと行けないが、能くぞ憶えていた物だ。気に成ったので二冊の句集を見ると、仕事がテーマの句は第一句集に六句有ったが第二句集には無い。夢で詠んでいた句は所収されておらず、句自身が見捨てないで欲しいと言っているのではと思えて来る。遺句集だから有っても面白いテーマのようにも思うので「仕事」とメモ用紙にゆっくりと丁寧に書き足す。
 句作ノートも然うだが久し振りに句集を繰ると当時の出来事や句に込めた思いが甦る。仕事の句を探す途中、私に残された同胞であった長兄との「別れ」の句に目が止まる。
 
 長兄との別れは丁度夢で見た単身赴任中の出来事だった。中学校の校長まで勤め上げ定年退職を迎えた翌月に眼窩内悪性腫瘍と云う病が判り、享年六十歳で呆気無く旅立って逝った。其のときの句には悲しみと寂しさが迫って来る。
 
     兄癌の報せ冷たき闇に座す
     はらからはみな去り逝きし春の宵
     春雷は通夜の声無き棺ゆする
     白き骨がさりと砕け風光る
     青葉の土兄の遺骨に掛け合へり
 
 兄の外面は真面目で同和教育に熱心な教育者だった一方で、内面は非常にドライな性格で冷徹であった。幼い頃から頭脳明晰だったが家が貧しかったため官費で行ける師範学校に進学し、私が尋常小学校六年生のとき新任教師として私の通う小学校に赴任すると云う巡り合わせも有った。私はそんな兄を尊敬の眼差しで見ていたが、ひと回りの年の差から同じ屋根の下で生活した思い出が殆ど無く、兄の性格は弟の私ですらときに冷たく感じた物だった。其は他人である私の妻に取っては尚更で、私の両親の面倒を兄弟の何方で看るかの話し合いの折、兄からの手紙が妻の怒りを買ったことを鮮明に憶えている。
 其の内容を要約すると、兄か私の何方かが両親一緒に面倒を看るのは物理的にも経済的かつ時間的にも無理だから、父は兄、母は私で其々が別々に面倒を看ると云う物で、結論在りきの提案だった。其の手紙を見て妻は「死別した訳でも無いのに今迄一緒に暮して来た夫婦を別々にすると考えること自体が信じられないし、しかも脳梗塞で半身不随に成った義母を弟のあなたに押し付けるような考えも許せない、達筆かも知れないけどこんな内容だったら手紙何か要らない、冷たい人だ」と憤りを私にぶつけて来た。因みに兄は巻紙に墨痕鮮やかに草書で書き付ける程の達筆であり、その手紙が私はこんなにも字が上手だよと見せびらかしているように思えて妻の憤慨の一因に成ったのかも知れない。

(七月十一日につづく)
 

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