「芭蕉より一茶が好き」32.

(七月二十四日その2・・・「歩く」をテーマにした選句が終わる。主人公が一番拘ったテーマだったので句作数も其也にありました。次の選句のテーマは「日常」です。)

 
     我が影の落葉とともに吹かれをり
 
 いつもの散歩コースに有る地元の植物公園を私は歩いている。初冬の園内の小径は既に多くの落葉で敷き詰められ、太陽を背にして歩くと自分の長い影が落葉の上に投影されている。そんなとき吹いて来た木枯らしの卵と言うべき北からの風に落葉と共に私の影も宙に舞っている。そんな一刹那に見えた情景を詠んで見たが読み手に伝わっただろうか。此で「歩く」テーマの句は終わりだ。
 続いてのテーマは「日常」で行こう。日常の気付きの中から生まれた句は勿論だが、自分の思いや考え方を吐露した句も入れるか。先ずは八十歳のときに戻ろう。
 
     煤逃げて無声映画の二本立て
 
 「家事全般は妻の仕事」は我が家の不文律である。年も押し迫ると正月に向けて妻が家中を掃除する。其のとき私は邪魔者扱いと云うのが常で、寒い中を行く当ても無く散歩したり、繁華街に出掛け映画を観たりする。煤払いに関しては役立たずと思われており、員数に数えて貰えないのが寂しい。そんな気持ちを籠めている。
 
     取替への出来ぬ来し方古日記
 
 八十歳の年が終わろうとしている。一年を締め括る日の日記を書き終えたが、残り少ない人生を悔いなく過ごした一年だったかと聞かれれば相変わらず煩悩に塗れた一年だったとしか言えない。其の思いを詠んでいる。次は八十一歳の初秋迄飛ぶなと思ったら、昼ご飯の準備が出来たとのお触れが来る。一旦小休止だ。
 昼ご飯、昼のルーティーンを終えると程無くして体を拭いて貰う時間だ。消毒を兼ねた薄荷の成分が入ったアルコールが体に爽やかさを与えて呉れる。アルコールは直ぐに蒸発するのでシャワーを浴びるよりは始末が良いかも知れない。しかし湯舟に浸かる心地良さには勝て無い。さて晩ご飯迄選句作業に励もう。早や八十一歳の初秋の句だ。
 
     晩年のひと日過ぎゆくかなかなかな
 
 蜩の鳴き声は夏から秋に向かう頃の夕刻に能く似合う。鳴き出しの早いテンポから少しずつ間延びし、最後はもうひと声有るかなと思って待っているとそれ以上鳴かない。丸で人の一生のように思えて来る。そんな秋を感じさせる一日の終わりの感想を詠んでいる。敢えて切れ字にかなを選択し聴覚でも視覚でも季語を強調する遊び心だ。
 
     咳ひとつして本題に戻しけり
 
 私は呼吸器系に少々難が有るようで能く咳込む。だからかどうかは判らぬが季語に咳を使うと不思議に秀句が多い。実際第一句集を繰ると「咳こんで我が身一つをもてあます」「剝落の壁画に咳をこらへけり」が有るし、第二句集を繰れば「深閑とせし竹林に咳こぼす」が所収されている。本題にの句も其の中のひとつだ。
 話し合いのとき話しが脱線する傾向に有る人が偶に居る。此の日も句会の吟行先を決めるのに幹事数人で喫茶店に集まり意見を出し合っていると、候補地近くの行楽地での有名人の醜聞をひとりが話し出す。其処で脱線しそうに成るのを防ぐため私が咳払いをしたと云うのが此の句の顛末だ。其の場の雰囲気が見えるようである。
 
     着ぶくれて己が身ひとつもてあます
 
 冬に成ると寒がり屋の私は外出するときだけで無く家に居ても結構着込む。其の状態を詠んでいる直接的な意味合いも勿論有るが、同時に出掛けるのも億劫になる程に冷え込む日に所在無げに炬燵に入りテレビを見ている私自身を揶揄している句でもある。
 
     いのちいつ果つとも知らず日記買ふ
 
 季語の日記果つや日記買ふは七十歳を意識し始めた頃から師走に成ると好んで使っており、今年も八十一歳の年を大過無く過ごせたと云う思いで詠んでいる。
 私は会社勤めを始めてから此の方、先の予定や其の日の行動を記録する手帳を日記代わりに使っている。自分の寿命が尽きる日を知る由も無く、此から先も翌年の手帳を買い続けるのだろう。
 
     初夢のひたすら歩いてをりにけり
 
 何故夢を見るのか現代の科学でも明確に解明出来ないが、著名な精神科医で心理学者の夢判断に拠ると見た夢で其の人の無意識の願望が判ると言う。
私の満八十二歳に成る正月に見た夢は斯うだ。時間や季節は判らないが、走っている訳でも無く立ち止まって風景を観賞でいる訳でも無い。真っ直ぐ前を向いて歩いている。さてどんな夢判断を下されるのだろうか。
 
     歯一本抜かれて帰る西日中
 
 面白可笑しい素直な句だ。歯医者に予約を入れたときから歯を一本抜かれるのは承知しており、せめて帰り道は夕立上がりの涼やかな風が吹いて呉れれば少しは救われたのだろう。しかし自然が相手では容易くは無い。傷口に塩を刷り込まれるが如き厳しい西日を真面に浴び乍ら家路を急ぐ私だ。
 
     少子化は淋しからずや鯉のぼり
 
 若山牧水の短歌「白鳥は哀しからずや」を意識している。戦中派の私に取って子どもの数が減る何て考えても見なかったことだが、いざ少子化の波が目の前に来ると私達の世代で何が出来るのか悩んで仕舞う。此の句は少子化を社会問題として深く考えている物では無く、単純に此の状況を鯉のぼりは寂しくないのだろうか、否寂しい筈だと詠んでいるだけだ。擬人化が嫌味かも知れない。
 
     甚平来て世の甘言に耳貸さず
 
 上五の甚平着てはちゃんちゃんこの夏版で年寄り即ち私を指している。此の句の表向きは、私も齢を重ね甘い言葉に惑わされないだけの経験を積んで来たと詠んでいるのだが、実はこの裏側には私自身の若気の至りの反省が隠されている。
 旧工専出の私と旧帝大出身者との出世速度は当初可成りの差が有って、其を感じ始めた私は会社に対しても不満を抱く。そんなときと云うのは往々にして甘い話しが来る。会社の先輩が職を辞して新しく事業を始めるのでお前も一緒に遣らないかと言う。ならば何を置いても妻にだけはと思い相談するも即座に猛反対。結局あれから半世紀が過ぎ歳を取って仕舞ったが、振り返ると言う迄も無く辞めなくて良かったねと言わざるを得ないのである。妻に感謝だ。
 
     政変やどれも歪な榠樝の実
 
 此の年の衆議院選挙で野党が過半数を獲得して与野党逆転が実現している。此の政変を如何にして句材に出来無いかを考えていた処に、或る日いつもの散策の途中に自生の榠樝の実が成っているのを見付け、政変と絡めて句作して見たのだ。生で食べない果実故に自然に朽ちるのを待つためどれも歪で、皆何処かに歪な所が有る与野党の政治家に嵩ね合せて仕舞う。どうも怪しいぞとの懐疑的な思いを句に込めている。上五で切れ字のやを使って一旦区切りを着け季語を比喩に使わないように工夫して連想に留めた積りだが如何評価戴けるだろうか。

(七月二十四日その3につづく)

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