「芭蕉より一茶が好き」28.
(七月二十二日その2・・・人生四度目の入院を経て外出も儘成らなく成った主人公は八十九歳、九十歳の頃を振り返ります。)
退院後はあれだけ健脚を誇っていたにも拘わらず体力と気力が戻らず、家に籠り切りと成って居間でテレビや新聞を見るだけに成っていた。日常の散歩での小さな変化や、少し足を延ばした散策や吟行での感動や気付きを句作の原動力にしていた私が全くと言って良い程外出しない訳だから、俳句との向き合い方にも変化を来たしたのは当然だった。句作ノートや出句ノートを開くと言えば、丸で夏休みが終わる寸前の小学生のように俳誌の締め切り日が迫ったり、主宰や俳誌担当の句友からの督促が来てからだった。
記憶を辿ると其は入院前から始まっていたように思う。出句ノートのFAXの文字が示すように督促を貰っては旧作の中から未発表の句を探し出したり、出句済みでも季語や語順や字句を入れ替えたりして推敲句を出句し体裁を繕っていたと思う。そして入院だ。母と同じような半身不随や他の障害が残ったりすること無く最悪の事態は免れたが、退院後の句作意欲の減衰は句会ノートの九月十三日を見れば一目瞭然と言える。しかし一方で別の見方をすると能く出席した物だと言えなくも無い。此の句友からの葉書が気力を蘇らせて呉れたのだろう。
もう一枚の葉書の消印は退院後明けて翌年の二月十日だ。次回の句会日程の二月十四日と二つの兼題が書かれたあと「寒い日が続いております。お元気でお過ごしと存じます。先生には五句お願い致します」と続く。二枚目の縒れた字のメモ紙を改めて見る。
春浅し港に漁船ひしめける
節分の鬼に追はれて逃げまどふ
雲はらひ比良の残雪きらめけり
メモの最初の二句と葉書に有る二月の兼題は符合する。更に出句を五句求められ、頑張って句作するも残雪の句のあとが続かなかったと想像出来る。縒れた字から考えても、恐らく体調も一進一退でこの三句が精一杯だったのだろう。しかし旧作を見乍らの継ぎ接ぎと季語の載せ替えで句作した感は否めず、遺句集に所収する句は無い。ではこの三句の三ケ月前に行った吟行の句は如何だろうとB五判の句会ノートを見る。
吟行の句は全部で八句だ。共にそのときの気付きや情景を素直に詠んだ新作だが、名所案内に季語がくっ付いているだけに終わっている句が多い。しかも無季の句も有るし季節外れの季語を使った句も有り溜息が漏れる。其の中で季語の力に助けられた句が有る。
鑑真和上の身代り像に菊の花
恐らく見た儘詠んだのであろうが、律宗の教えを説くために盲目に成ろうとも日本に渡る意志を貫き通した高僧の徳の尊さを偲び、千五百年の時を経ても身代り像の前に菊の花を活けている情景が浮かぶ句に成っている。季語が上五の破調を諸ともせず、又名所案内に陥る処を一歩手前で留めていると思う。此の頃の体調は良かったのだろう。
然うすると四つのノートを見る限り退院から年末迄のほぼ六ケ月間で句会に二度、吟行に一度、俳誌への出句が一回、遺句集に所収したい句は一句だけであり、改めて老化を再認識せざるを得ない現実である。
「晩ご飯の用意が出来ましたよウ」気に病んでも仕様が無いので三年前の句作を見ようと思った処に元気の良い看護師さんの声掛けが病室に響く。気分転換に丁度良い。
夜の食後のルーティーンも終えても今日は眠く成らず頭は冴えている。やはり輸血のお蔭だと思い乍らB六判の句作ノートを手に取る。明けて満九十歳を迎える年の正月だ。常套句を使ってだがやっと俳句らしい一句が有る。
永らへるいのちいとほし初明り
拳大しか無い私の心臓が九十年近くも働き続けて呉れている。お蔭で今年も曲り成りにも元日の朝日を浴びることが出来有難いことだと素直に詠んでいる。此の句には一月のSB句会に出句したとメモが有るが、出句ノートや句会ノートへの転記もないし出席出来たかどうかも怪しい。句作ノートを読み続ける程に気が滅入る。体だけで無く心も「老い」との闘いだったのだろう。
先ず句作した日付を殆どメモしていない。次に季寄せはしているが、其の季寄せが乱雑と言った方が良い位季節を無視して並んでいる。例えば花で季寄せしているので句作の時期は春かと思えば次は冬の季語の山眠るに変り、其のあと又花に戻って、其の次は秋の季語で季寄せして又も花に戻る。実に脈略の無い状態の季寄せに成っている。
元々句作ノートは句作した日付順を優先し其の中で季寄せして書き留めている。あとから句を探し易くする目的で始めたのに此では意味が無い。丸で自らの惚けを記録しているような物だ。恐らく句作しているときも、ノートに書き留めているときも思考回路が行きつ戻りつしていたのだろう。
しかも此のノートを見る迄此のことを思い出さなかったのも驚きである。此迄楽しく選句して来たのに、自らの異変の証拠を胸元に突き付けられ苦しく成って来る。句作ノートから目を離す。心拍数が上って来ているのが判る。
此は過去の出来事だから心配する必要は無いと自分に言い聞かせる私と、私の俳句人生は風前の灯と達観する私が居る。しかし其処で出る結論は「だから遺句集だ」である。
天井を仰ぎ乍ら深く息を吐き、ならば見極めようと句作ノートを読み進めて行くと、初明り以降の句数は凡そ二百句だ。其処で此の句作ノートも終わっている。句作はしてもノートに転記する程の俳句に成らなかったか、其とも句作すらしなく成ったか、冴えている頭の中に目一杯血流を巡らせ神経を集中して記憶を辿って見る。
二十代から参加し私の俳句人生の原点であり私が句会長だったOK句会は元より、AM結社の例句会や有志で作る研鑽句会も、更に歩いて僅か一分の町内の集会所が例句会の会場だった地元老人大学のサークル仲間有志で作ったSB句会でさえ欠席が続いたのは確かだ。電車の中で尿意を催したら如何しようとか、歩いていて転んだら如何しようと云う恐怖心も勿論有って欠席が続いたが、会話すら怪しい状態に成っていたことが一番の理由だったように思う。其とほぼ同時に字も上手く書けなく成って行ったような気がする。
言葉が出て来ない、字が書けないでは目の前に感動や発想が有っても俳句は作れず、句作ノートの頁が白紙に成るのは容易に想像出来る。恐らく九十歳の誕生日を迎えた頃から俳人では無かったのだろうと思う。その証拠の句が句作ノートに有る。
九十を祝ひて子より夏のシヤツ
句作ノートを見ると体調が良い日は俳句に向き合っているようで、句作もして字もしっかり書いている。しかし日付の記載は無く、頭の中に有る風景の残像で句作していると思われ季節がころころ変わっているため、字の変化を見て句作日が変わって行くのを読み取るしか無い。ほんの三年前の自作句なのに丸で他人の句作を管見しているような私に記憶が無いことが情けない。
そんな残像の写生句の中に有ってひとつだけ感情の動きを詠んだ即吟句が此だ。句の背景は読んで字の如くである。前書きや句作日が記されず此の句を読めば其れなりに見えるが、残念乍ら此を詠んだのは私の誕生日前後だから季節は春なのに季語は夏だ。詰り、日記に書き留める散文に終わっており即吟句としては駄目なのだ。斯うして自らの呆け具合を見せ付けられるのも辛い物が有る。何れにしても、仕事に没頭するため俳句から遠ざかった六十年前とは全く違う形で俳句から遠ざかったことに成る。
そんな折、此だけは記憶に残っている出来事が有る。俳句に対して何をさて置いても精力的に臨んでいた私の変化を具に見ていた妻は直言して来たのである。
「そんなに作らないんだったら会費が勿体ないから退会したら」
妻が退会を求めて来た会は、正会員が個人で構成され賛助会員に俳句結社が名を列ねる俳句振興を目的とした全国組織だ。正会員に成るには賛助会員である結社の主宰の推薦を必要としており、会員名簿には俳壇の世界で名だたる先生と呼ばれる方たちに交じって自分の名前も記され、私のような市井の俳人に取って会員番号03―0599は公に俳人と認められている自己満足の証しだった。
其を返上せよと云う言葉は長年私を支えて呉れた妻だからこそ言えたことであり、俳句結社の退会迄求めなかったのはある意味武士の情けだった。其のとき妻曰く、結社は体調が戻ったとき句作する励みにも成るが、何とか会の正会員は会費だけ払って何の役にも立たず、私の自己満足のためだけにお金を出す必要は無いと言う。此を聞いた私は不思議に納得し抵抗することも無く素直に容認したのである。
そして退会届けは字が書けない私に代わり妻が書いて呉れた。大袈裟な物言いをすれば切腹する武士への「介錯仕る」だった。
退院後の自分で在って自分で無い状態はいつ其のような話題が出ても仕方無いと思ってはいたものの、いざ実際に言われるとやはり寂しさが募ったことも思い出される。靄が掛かったような気持ちに成って来る。
(七月二十三日につづく)