病みに病んだ私の大学受験#2
こちらの記事の続きとなっています。
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二度目の受験(浪人生)
大学受験に失敗し、納得のいかない状態で大学生活を過ごすことが嫌で浪人を決意しました。
友達も何人か浪人をするという事だったため、それほど抵抗感なく決意することができたと感じます。
浪人では、みんなと同じで大手予備校に通うのだと考えていました。
しかし、私の人に合わせてしまう性格を見抜いた父が小さな個人塾での浪人を進めてきました。
他の友達と違った方法で浪人をすることにかなり抵抗はあったものの、それまで父の提案を受けて失敗したことがなく、逆に受けずに失敗したことがあったため、個人塾に通いながらの浪人を決意しました。
通うことになった個人塾での数学の授業は、先生が選んで問題をまとめた冊子をもとに解くというもので、毎回丁寧になぜその公式を用いるのか、その公式はどのようにしてできたものなのか、他にも別の解き方はないのか等、一からきちんと丁寧に、時間のある浪人生にしかできない方法で教えてくださいました。
その授業を通して、きれいに最初から学び汎用性のある知識を身に着けるという勉強法が身についたと感じます。
また、一問からできるだけたくさんのことを学ぶという姿勢も学びました。
このような勉強を続けることで、徐々に汎用性のある知識、それぞれの公式が果たす役割を理解し始め、自由自在に問題に利用できるようになりました。
最終的には、数学の別単元に応用するだけでなく、物理の回転に数学の知識を用いるなど、自由自在に知識の応用をすることができるようになりました。
この方法がだんだん身についてきたのが、浪人の8月くらい。
そこから他の化学や英文法など暗記でこなす範囲をどんどん無くしていきました。
論理的に考える力がどんどん上がっていきました。
しかし、地理に関しては全くできませんでした。
なぜだったのでしょうか?
それはおそらく、
数学は、少数の知識を多様な問題に応用する
地理は、大量の情報を多様な問題に応用する
応用量がついてきたばかりで、大量の知識を応用するところまで到達していなかったからだと考えています。
実際に浪人の10月の模試では過去最低の23点を取ってしまいました。
この時は流石に焦りました。
ここから、人生最大の病み期に入りました。
人生最大の病み期
浪人の半年間で、数学や物理、化学の学力はかなりついていました。
実際に模試でもそのことを実感していました。
しかし、いくら二次力がついてもセンター試験で失敗をすれば全て意味がなくなる。
現役から合わせると1年半地理をやってきており、センター試験までは残り三ヶ月。
残り期間でセンター地理を8割に持ち上げるビジョンが全く見えませんでした。
そのため、地理には見切りをつけて大量の暗記と少しの応用でいける倫理政経に変更をしました。
当時、歴史や政治に興味がなく、ほとんど知識ゼロの状態でのスタートとなりました。
模試で過去最低点を取った事による、焦りから全てが狂い始めました。
センター試験当日までの時間を以前の何倍も意識するようになりました。
それにより、「後〇〇日なのにこんなところもできていない。」と社会だけでなく全科目において、できていない部分を過剰に意識してしまうようになりました。
解けなかった問題があった時は、その問題の難易度に関わらず「やばいやばいこのままではだめだ」と焦ってしまっていました。
焦りや緊張等の様々な感情が混ざり合ってピークに達したときは、えずきながら勉強したこともありました。
気分転換や食事の時間も惜しいと思うようにもなりました。
そのため、気分転換はほかの科目に変える事、食事はカロリーを摂取する事。
と自分の中で無意識に定義され、カロリーの一番高い黒糖バターロールを毎日食べるようになりました。
また、当時は塾の授業もほとんどなく、他の利用者がほとんどいない有料の自習室を借りて自分のペンの音しか聞こえないところで一日を過ごすようになっていました。
実家もただ寝る場所と化しており、親ともあまり話す時間が無くなっていました。
そんな状況で一ケ月も過ごすと、どのくらいの力で声を出せば、どのくらいの大きさの声が出るのかが分からなくなっていました。
コンビニで「ありがとうございます」の力加減を間違えて少し声が大きくなってしまい、店員をびくっとさせてしまったこともありました。
最後に
初めは学力が順調に上がり、浪人があまり苦とは思いませんでしたが、試験が近づくにつれて徐々に浪人の背負っているもの(自分の人生の一年)の重みを実感するようになりました。
第一志望の国立大学に入れるチャンスは一回のみ、その重圧から精神がすり減り、繊細になり、もろくなってしまいました。
今回はここまでになります。
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