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就活からの逃避としての院進の可能性について

 自身はいま大学4年生の夏を迎えようとしている。周りは就活に励んだり、人によっては就活が終わってバイトをしまくったり、又は卒業の為に単位を掻き集めているといった雰囲気で十人十色という感じ。  

 今私は就活を放り捨てて、大学院に進むという選択肢一本で生きている。勿論理由がない訳ではない。小さな頃から私は社会人をやってるところが想像できないと周りに言われたりして、自分は社会不適合者なんだろうなと勝手に何もかもわかったような気でここまで来てしまったというのが大きいというのは一つあるだろう。

 なんて事をずっと言っていて、これはわりかし周りが納得してくれる。でも多分、その根底には自分が抱く社会に対する恐怖がある。というのも、私がよく父親に言われた「お前は社会でやっていけない」というワードに代表されるだろう。

 社会でやっていけない=社会不適合という等式が私の中にあったし、その感覚は上で述べた通りだ。でも私はずっと社会に対する恐怖や敵意があった。社会でやっていけないというのは、とどのつまり生きていけないという事を暗示していたし、それを言ってくる奴等は全員が私を否定してきたから。

 朝ちゃんと起きることが出来ないから?寝坊をするから?話がおかしいから?論理構成?思考の様式?私の社会への認知が歪んでるから?私が変わってるから?

 私への否定は、言うならば彼等の好ましい人間像に私が合致するか否かだろう。でもそんな事を理解できるほど私は賢かはなかったろうし、何よりも色んな人と上手くやりたかった。でもそうは出来なかったんだよ。そんなよくわからないごちゃごちゃと未だ消化しきれていないものがある。それが例え、私を否定してきたそいつらの言う社会なんてものはそいつらの生きてる環境でしかなく、恣意的で普遍性がないにせよ、だ。

 そんなどろどろとしたくだらないものが私の中にあるが、話を元に戻そう。私は学生の4年間を生きてきて、大学のサークルだったりインカレといったものをちょっと下に見ていた気がする。"學生は學問こそが至大なのだ!"みたいなね。

 でもなんだか今更になって、もっと友達増やしとけばよかったなとか、もっと交流しとけばよかった、オーケストラや軽音、吹奏楽やジャズといった音楽をやってみたかったとか、読書会をもっとやってみたかったとかそんな感情があることを認めざるを得ない。

 きっとそれは、結局私が人よりそこそこ学問とやらを齧って学術書や岩波をそれなりに読んでいたって上には上がいるのいうことを理解したら、中途半端だということをわかってしまったから。それに人は1人じゃさみしいもの。

 なんてありきたりな事を思ってしまえば、結局とどのつまりはどんだけ格好をつけたところで私のこの目指している進路は社会とやらからの逃避じゃないのかと思えてくる。いや、そう思ったからこそそんなタイトルをつけて書いてみた。でもきっと、それを選べなかったのはそれとのご縁がなかったと諦めるしかないのだろう。

 もっと上手くやれた可能性にばっかし我々人間というものは目が行きがちだ。失ってからわかる。けれども、じゃあもっと上手くやれずにいっていたら?私はもしかすれば途中で終わって生きてやいないのかもしれない。可能性は両方を峻厳すべきだ。そうじゃないと片思いで終わってしまう。隣の葡萄は酸っぱいのだ。

 私はずっと、このような認識を色々諦めてこそだと思っていた。こうであったらなといった理想や願望、過去の出来事をしょうがないねって諦めることであり、それが大人なんだと。でも別にちゃんと両方を汲み取って理解してやれば、悪くはない。それを糧に生きていける。

 人によってはただの正当化だとしても、何かをちゃんと自分のものだと理解して受け入れるのは難しい。でもそうやってこそなんだろう。結局何かすごい人にはなれなかったけども、肚を決めたこの先に幸のあらん事を。

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文章化するとわりかし自分の感情が落ち着くもんですね。かまってちゃんの『33歳の夏休み』を聴きながら

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