何も知らない人の観測記
コメント欄に蔓延る『まだこの曲聴いている人俺の他にいるかな?』とかいうクソ寒いコメントとそのクソガキが消えてなくなりますように。
(これを視界に入れないようにするためにストリーミングサービスがあるんだって発見した時は爽快でした)
以下は別段文学的に仕立て上げられた物語などではない。一昔前に起こっていたインターネット泥沼劇を見ていた時分に感じた、素朴ないつくかの感情の記録と、誰よりも何もわからない位置から眺めてたどり着いた奇妙な解釈の披瀝である。なぜこんなことを今になってやるかというに、勃然として書き残しておこうと思ったからでしかないわけではあるが、いつか記憶から抜け落ちてしまうであろう、ヘンテコでいて妙に心にすんなり収まった解釈の体験が、書き残しておくに値すると感じたからである。それに、一昔前からずっと頭の片隅に取り置いていて、このままずっと居つかせるわけにもいかないので、ここいらで一つ詳しく整理して成仏させてしまおうという次第である。
私としての前日譚などはなく、当事者たちについても、その属性だとかに対しては意味を持ち得るかも知れなかったが、個々人については別段興味はなかったので、特筆して語ることはない。私は他の最も多くの人たちと同様、一連の出来事の始まりをただの野次馬として耳にした。大手事務所に属するvtuberの配信画面から、とある歌い手との同棲疑惑が生じたらしい。調べると元々この二人の交際疑惑云々についてはそれなりに昔から取り沙汰されていたようで、第三者としてはゴシップとして消費するネタの一つだと眺めていた。この頃はvtuberだとか、現実に不都合を生じさせる存在が故に問題を引き起こすということが多々あり、運営によってキャラクターはそのままで担当声優が何事もなく挿げ替えられたり、画面の操縦者と声優が全くの別物であったり、幼いアバターを使っているからその設定で話しかけたらガキじゃないなどと逆ギレしたり、それら一連の流れでこの騒ぎは深い感動なく迎えられた。しかし次の日、殊勝にも(そうせざるを得ない状況というのが両者ともであったわけだが)その疑惑を否定する声明が出された。しかし取り巻き達恐ろしやとでも言おうか(実際は野次馬恐ろしやというとこだろうが)、それだけでことは収まらず、あれよあれよとvtuberは事務所から契約を解除されることになった。この後もこの件を巡っては同棲疑惑のあった二人が今度は対立してなんだなんだとよくわからない方向へ進み、上に述べたことの審議のほども果たしてどれだけ、という代物ではあるのだが、とりあえず当時を復元しようと試みるのでこういう形にしておく。
なんとまあ可哀想なことか、というのが私の印象だった。きっかけは配信の画面上にメッセージのやり取りが表示された、というだけにすぎない。それが何ということだろうか、数千万稼げる仕事とそれで得られる承認欲求、三十代半ばまで何年もずっと連れ添っているパートナーを失ったのだ。フランスの小説なら今頃こんな憂き目にあった貴婦人は茫然自失の半狂乱状態に陥って高熱を出し意識不明といったところか。今でこそ頂き女子として一世を風靡した囚人に全国から憐憫の声が寄せられているが、この事案に限っては全くそんな声は聞かれなかった。件の女性が騒ぎの途中で自身の精神的脆さを露呈することになり、またインターネットで生き抜いてきた度胸と手腕も加わって契約解除となったあたりで不穏な動きをいくつかしたものの、与えられた精神的ショックを鑑みれば、決して私は無様だと笑う気にはなれなかった。今の今までこの女性自体に対しての興味は湧かないし、色恋沙汰と見ても私は性別も違うし、ここまでの同情をする理由はやはり一人の人間としてというほかない。したがって、自分には当然である、少なくとも納得までいかなくとも理解はできるこの考えが、他には見つからない、という事態は奇妙だった。私も一人の何でもない野次馬として他人の不幸を人並みに楽しむことはできるが、ここまで自分の力ではどうしようもできなく、なしくずし的に人生が壊れていく様を見ては楽しくはなれなかった。メッセージの表示一つという日常に埋没した事象から破滅が導かれるというのは、他のゴシップの類と違って身につまされるものがある。無駄に長く、個人情報をアップロードするなんて阿呆の所業だという雰囲気だった時からインターネットをやっているから、その恐怖というのは人よりも大きく感じるのかもしれない。それにしても、こんな周りの反応というのも含めて、可哀想だった。正義の顔して愛を唄うのでもないが、周りの反応が違っていたら彼女の行動もまた違っていたのだろうか。画面上の3Dキャラクターへの愛ではなくて、人生の岐路に立たされた画面の向こうの一人の人間に対する感情を表せたら何か違っていたのか。その後名前を聞くたびに、彼女が当時の幸せを保持し続けられる道はなかったのかと思案するのだ。(まあ後にこんな考えを吹き飛ばす話が明らかになるのだが。)
改めて思い直すと、男の側に一切感情移入しないのはなぜだと不思議に思う。彼も彼の方でそれなりの損害を被っているわけで、職を失うことはなかったが、過失もないので少しくらいの同情が分けられてもおかしくないはずではある。この二人は事件に対する反応が違った。男はそのダメージを受けても沈み切った後の飛翔に目が向いていた。女は袋小路に行き着いたあてに自傷行為に走った。おぼつかない足取りで何度も壁にぶつかり、その体力の限り愚行を冒し切るという体だった。目に見えている退廃に目も当てられないと私は感じたのだろうか。
しかし結局、私はこの二人を何も知らない人であって、それまでに何かを見ていた人とは違う印象を抱いているに違いない。だがそれでも、というよりその無縁がゆえに、現実を率直に捉えているだろうし、この赤の他人の幸福を願わないではいられない。
ーーーというのが、週刊誌で婚姻関係にあって離婚した云々とかの話がこんがらがる前の感想だ。
追記
この女性が、大人数の野次馬に囲まれてなお、被害者ムーブをすることなく気丈に生きていたところに人間としての愛おしさを感じたことは後から指摘できる。決して上手くやり過ごすことができるわけではないけど、自身の置かれた環境に逆らわない潔さというのは、この人の美点であって、人間の持つ美しさを呈している。この人のしたことは多々非難されるべきこともあろうが、その生き様はとっても快いものだった。