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娘の診断名に思った事

我が子に発達障害があるかも?と思った時、まず何をすべきなのだろう…?

お恥ずかしい話なのですが、娘の発達障害に気付いた時の私達夫婦には
それが全く分かりませんでした。
最近は発達障害についてメディアで取り上げられる機会も多くなりました。
書籍も随分多く並んでいます。
振り返ってみると12年前にはまだ今ほど情報が多くなかったような気もします。

大抵の場合、発達障害の疑いがある子供は3歳児健診で医師から指摘を受け
その後すべき事のアドバイスを受けたり、病院を紹介されたりするのだと聞いた事があります。

ところが、何故か我が家の娘はその指摘を受ける事無く3歳児健診を素通りしてしまったのでした。(会場では大泣き、大暴れ、大騒ぎだったのですが…。不思議です)

娘は初夏に生まれた子供です。
なので、3年保育で幼稚園に入園するとほどなくして4歳の誕生日を迎えます。
身体は年齢相応に成長していましたが、当時の娘は1歳で歩き始めた頃からあまり変わらず…
というよりはむしろ成長と共に理解しがたい不思議な行動が増えていったのです。


その頃の娘の状況を改めて思い出してみました。
ここに記してみようと思います。

話す言葉は数個の単語のみ。
会話のキャッチボールは全く成り立ちません。
欲しい物、して欲しい事がある時には、親の手を持って指さしをしたり
これをやってと伝えてくるのですが、そのコミュケーションは完全に一方通行。
他人からの発信に答える事は一切ありませんでした。

食事に関しては極度に神経質。
食べられる食材は片手で数えられる程でした。
また、同じ食材でも調理法が変われば一切食べなくなるのです。
食べる場所にもこだわりがありました。
例えば、車の中でなら食べるけれど、家の中では食べないといった感じです。
食事を楽しんでいる様子なんて微塵もありませんでした。
食に対して「楽しい、嬉しい」という感覚が無かったのでしょうね。

トイレを極端に恐がり、入るどころかちょっと覗く事さえ悲鳴を上げて拒絶していました。
おまるなどもってのほか。
こんな状態でしたから、トイレトレーニングなど出来る訳もありません。

服を着る事を極端に嫌がるようになったのは2歳頃の事でした。
真冬でも家の中では肌着だけで過ごしたがりました。
やっとの思いで着せてもすぐに脱いでしまい、肌着になると心底ホッとしたような顔をしていたものです。
おかげで、この頃の我が家は1年中常夏のような温度をキープして過ごしました。
(今ならこれは感覚過敏だと理解ができるのですが、当時は知識が無かったので悩みました。)

親以外の他人をとても恐がり、話し掛けられたりすると必ず下を向いて固まってしまいました。
なので、話し掛けて下さった方もどうしたものかと困っているのが伝わってきて、申し訳なく思ったものです。
これはいわゆるパニック症状。
今ならそれに気付いてやれるのですが、当時は全く…。

この頃の娘にとっての楽しい遊びといえば
「公園の花壇や大きな木の根元を覗き込んで観察すること。」
「路肩にある排水溝に水が流れ込むのをひたすら眺めること。」
「家にあるおもちゃを規則正しく並べてゴロゴロしながら眺めること。」
と言った感じでした。

娘は自分1人の世界を過ごしていたのだと思います。

娘の発達障害に気付いた時、何をどうすれば良いのか私達夫婦は全くの無知でした。
でも、とにかく娘の為に動き出さなければ何も始まらない。
そこでとにかく地域の保健センターに連絡を取り、今後の事について相談してみる事にしたのです。

この電話で、センターでは月に1度言語聴覚士による子育て相談日が設けられていることを知り、早速相談の予約を取る事ができました。

それから約1週間後、約束の相談日がやってきました。
案の定娘はセンターに入るのを拒み、泣いて暴れて大騒ぎでした。
その声の大きさと言ったら、思わず誰もが驚いて振り返る程…。

普段ならこれで「はい、今日は無理」と諦めてしまうのですが、その日ばかりは帰るわけにはいきません。
娘には気の毒でしたが、心を鬼にして頑張って貰いました。

言語聴覚士の先生はとても温和な方で
娘の事も
「こんな所に突然連れてこられたら恐いのは当たり前よ。」
と迎え入れて下さったのです。

その面談で、私は娘が生まれてからその日までの事を沢山話しました。
娘の現状について。
私の育て方に原因があるのかとずっと悩み続けていること。
発達障害の可能性を考えている事も含めて全てを吐き出しました。

全部吐かせてくれて、それをずっと黙って聞いてくれる人がいて、
これは自分でも想像していなかった事でしたが、初めて心が少し楽になった事を覚えています。

私の話を聞きながら、娘の様子を伺っていた先生が静かに話し始めました。
「もうご自分で勉強されているようだからはっきりと言います。娘さんは自閉症だと思います。ただ私は医師では無いので、病院に行ってきちんと医師の診断を受ける必要があります。」

「あまり考えられない事ですが、もしかしたら発達障害では無くて内科的疾患が原因になっている可能性も無いとは言えません。」

発達障害については、恐らくそうだろうと分かっていたので
「ああ、やっぱりそうか…。」
と、ショックではあっても落ち着いて受け入れる事ができました。
けれど内科的疾患については考えていなかったので、一気に不安が押し寄せてきました。

「とにかく早く病院に行かなくちゃ!きちんと診察して貰わないと!」
一気に緊張感が増したのを思い出します。

ふと娘に視線を向けてみました。
窓から見える景色を眺めている娘はまだまだ小さな背中です。
そこに重い荷物が乗っているように見えて、切なくなりました。

「どうしてこんな事になっちゃったんだろうね…。」
「ごめんね…。」

そんな私に、先生がこれからの事について説明して下さいました。
まずは、病院で専門医の診察を受けること。
保健センターでは発達障害児の為の教室が定期的に開催されており、病院で診察を受ける前から親子で参加出来ること。
今後、ずっと面談を続けながら保健センターが子育ての伴走をして下さることなどなど…。

具体的に今後について話すことで気持ちは落ち着き、前を向くための準備が自分の中で始まった気がしました。

「そう、この子を何としても幸せにしなくちゃならない。堂々と生きよう。強くなろう。落ち込んでる場合じゃ無い。」
この時、お腹の中にグッと力が入ったような気がします。


今思うと、この時はまだ可愛いものです。
何も始まっていないようなものでしたから。
たかがスタート地点でした。
ここから始まる日々の中で、私の甘っちょろい決意なんか実はしょっちゅう崩れて、何とかギリギリ立て直しての繰り返し。
弱音も毒も随分吐きました。
堂々と出来ない時もあったし。
親も子もそんなにいつも強く逞しくなんて訳にはいきません。

ここで力強く言ってしまいます。
今だってそんな事の繰り返しです。
進歩は無いのか?って言う感じですが…。

それでも思うのです。
もし誰かに
「障害を持つ子供を授かり育てて、貴方の人生は幸せですか?」
と聞かれたら、悔しいけれど私にはたった1つの答えしかありません。
「私、幸せなんです。娘がいない人生なんて考えられない。」
綺麗事なんかじゃありません。
どう考えてもこの言葉しか当てはまらない、そんな日々を娘は私にくれたのだとしか言いようがないのです。

私達夫婦はなかなか子供に恵まれず、結婚後長い時間を夫婦2人で生きてきました。
「2人で働き、2人で楽しむ毎日」
それなりに自由で気ままで、このままの人生も別に悪くないかな?と思っていました。

そんな私達の元に障害を持つ娘がやってきてくれて、私達夫婦の人生を180度変えてくれたのです。
初めて「私が生きるということ」に意味を感じられるようになりました。

娘を通して、沢山の人達に出会いました。
他人の人生の為に自分の心を傾け動いてくれる人達が、この世界にはこんなにたくさんいるのだと初めて知りました。
娘を通して知った世界は、ゆっくりで、温かくて、皆違って当たり前で、それぞれのペースで生きて良い事を私の目の前で見せてくれました。


この後、娘は生まれて初めて大きな病院を受診し、数々の検査を乗り越え
正式に「中程度の知的障害を伴う自閉症」との診断を受ける事になります。
それに伴う様々な届け出や、療育…。
親子でドタバタな日々がスタートしたわけです。
その中で感じたこと、初めて知ったことなどまた次回の記事で書いてみたいと思っています。

最後までお読み下さり、ありがとうございました。



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