ヘルプマークのジレンマ
最近は目にも慣れてきたヘルプマークの赤いタグ。目を引くのにおしゃれなデザインなのがまた良いなあと思っている。私の子どもは障害を持つので、その子のカバンにつけようかな、とずっと悩んでは結論し、また悩んでは今に至る。
我が家の子どもたちがまだ乳幼児の頃、今ほど少子化の問題などは今ほど知られておらず、むしろ「スマホ育児」とか「保育園建設が近所の反対で断念」とか「昔と違って、ダメな母親」と言う風潮がピークであった。そういう雰囲気もあり、公共の場所でそれは本当に冷たい視線を浴びたし、よく怒鳴られた。
「躾が悪い!」「世間に迷惑をかけている」と老若男女問わず見ず知らずの人が急に近づいて来て叫ばれ、長い時には30分ほども怒鳴られ続けることが本当によくあった。小さい子どもたちとたくさんの荷物を抱え、急いで逃げることもできず、そんな変な人を相手に抵抗すると、逆上して子どもに被害が及ぶのでは、と向こうの気が済むまで、ずっとしなだれていた。
そんな時、ヘルプマークをつけたらちょっとは周りの対応が変わるのかな?と頭をよぎったことがある。
優先席に座っても怪訝な顔をされない、障害のことをより認知してもらいやすいと思って、ヘルプマークをつける人を批判する訳は全くない。
でも私はどうしても引っかかる。それは、多分、ヘルプマークをつけることで、お互いへの気遣いはできても、会話、そしてそこから生まれる理解のきっかけを閉ざしてしまう気がするからだ。マークをつける人、見る人、お互い無言で、相手同士をなんらかの属性としてはみなしても、個人として認識できなくなるのではないか。
話は少しずれるが、以前、バスの中で、優先席近くに70代前半と見える老人女性が立っていた。私はその近くに立っていて、ふと見たその女性に驚いた。全身から怒りと苛立ちが立ち登っていたからだ。視線の先は、優先席を占拠する人で、多分彼女は席を譲って欲しかったのに、スマホ画面に見入って、彼女が立っていることにも気づかないその占拠者に腹が立っていたのだと思う。一言、「席を譲ってください」と彼女が言ったら、相手も気がつき、(おそらく)気持ちよく代わってくれただろう。もしくは、実はその人の方が実はとても不調があるかもしれない。思い込みだけで増幅する憎しみや苛立ちは自ら行動してみる、話しかけてみることで、すっと解決するかもしれないのに…。結局、その老人女性は相手を睨んだまま、バスを降りて行った。
「席をかわりましょうか?」とか「大丈夫ですか?」と相手と話すことで、席の譲り合いだけでなく、お互いの心は絶対に温まると思う。障害を持つ人だけでなく、普段健康な人でも、体調の悪い時、「席を変わってください」と頼める社会の方が、自分自身をラベル化して「水戸黄門の印籠」のようにマークを持たなければしんどい思いをする世の中よりずっと望ましい、と私は思う。
以前に、電車の中で、韓国人の家族と思わずして仲良くなった。その時、彼らたちは席に座っていたのだが、私は子どもの一人を抱っこし、もう一人の手を引いて立っていた。すると、その家族のお母さんが、ごく自然に、隣に座っていた男性に、声をかけ、身振り手振りで、あっちの空いた席に行ってください、そしてこの人(私たち)と席を代わってくださいと頼んでくれた。その男性は韓国語で話しかけられて一瞬驚いていたが、すぐに微笑んで移ってくれた。すごく勇気があるな、とその家族に私は感心したが、よく考えると、誰でもできることだ。声を直接かけることで、男性も気軽に別席に移ってくれ、その小さな親切のおかげで、私たちは楽しく話せた。私も立ちっぱなしで子どもを抱っこしていたのが随分楽になった。
私たちは最近他人と関わることに極端に怯えるようになってはいないだろうか。だから多くの人が、寂しいのに、他者に不満を抱きやすくなっているのかも。でも、それで私たちは何を得ているのだろう?
その時から私は電車に乗るたびに、この韓国のお母さんの素早く、自然なコミュニュケーション能力をいつも思い出している。