曖昧な日本の。。。
映画や芝居はよく観てきたと思う。友人もやっぱり同じような趣味で一緒にいろんな作品に触れてきたのだが、ある日、まじまじと「日本の映画やドラマで出てくる人間関係、結構 "perverted" だよね」pervert とは、英語の辞書では物事の元々から逸れてしまったり、不正直な状態になっているという意味で、彼女はとても詩的な人だからそう使ったのだと思うが、何しろ私の頭のなかは?!?!。だって pervert はもっと普通に、「変質者」として使われているからだ。その時は、えーなんで? と聞き返したのだが、今、しみじみと彼女の発言の深淵がわかるような気がする。
特に他の国の作品と比べてみるとその違いが際立つのだ。欧米、南米、アジアでも、描かれる人間たちはおしなべて、まず感情が先にあって、行動がついてくる。感情に正直に従って動いたり、また何かの事情や障壁のために正反対に動いたりする。貧困だったり、契約結婚だったり、幼馴染から始まる反発と淡い恋愛、いじめや人間関係の複雑化という設定は世界も日本も似たり寄ったりだが、外国作品の場合、そこに向き合う感情や心の動きは明確に示されている。
翻って、日本の作品は、この最初のトリガーの感情や気持ち、が非常に曖昧なのだ。登場人物は大体、何がどうで、どういう気持ちか本人がよくわからないで、ぼんやりしたまま、その時々の偶然的な瞬間的な衝動やちょっとした気持ちの振れに流されてしまい、衝撃の行動にドドーンと一足飛び、手も足も出ずにもぞもぞしていた一瞬前とは裏腹の激しい結果に余計悩まされてしまう…というのが王道パターンのようだ。定番で使われる、せつな系の「日々の何気ない瞬間」とか「感性の豊かさと鋭さ」ことば、もしくは「生き辛さ」や「もやもや」で甘くコーティングされていると何となく邦画やJードラマができる雰囲気になる。
それって、まさに物事の本質から逸れる=pervertではないのだろうか?
自分がどういう気持ちが腑に落ちず、何となく流されて行動していると、他者とのコミュニュケーションはもちろん、自分とのコミュニュケーションは難しくなっていくだろう。そこから生まれる衝動性の怖さ、北野監督は上手に描いていたなぁ。