自分の足跡〜小学校〜

こんばんは。
今日は、「よし、いける!」って思ったらやっぱりダメで悔しさと惨めさが降りかかる日でした。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

今日はタイトルどおり小学校時代の話です。
途中暗くなりますが、自分の1つのポイントとなる場所なので読んでいただければなと思います。


小学校低学年

このころの記憶とか、いい思い出があまり無くて。1年の時に1回だけ担任に注意された事とか今でも跡があるぐらいの怪我をした事ぐらいしか記憶にないです。

強いていうなら、幼稚園の時に付き合ってたと言っていた男の子と中学でまた校区が合うことが分かっていたので、「6年後、中学でまた会おう」という約束を当時は本気で信じていました(笑)。
自分はこの約束をしっかり中学までも覚えていましたが、彼は全く記憶にあるのかないのかこの話をしたことすらありません。
けど、お互い中学で吹奏楽部だったので今ではいい友達です。

小学校高学年


ここからは父親の話を。

結論として小6の7月に父親は亡くなります。
その時の話しをしたいと思います。

まず、4年生の頃、父親に黄疸が見えるようになりました。
自分たち姉妹は何も知らなかったので、「バナナ食べすぎてバナナになったんだ!バナナ病だ!」と笑っていました。

そして、姉妹で呑気にしてる間に父は入退院を繰り返すようになりました。
最初は市の総合病院だったのが、自分が5年の頃には名古屋のとにかく大きい病院に。

当時の自分は流石に名古屋の病院はビビってお見舞いにも行けませんでした。

それが、確か5年の秋頃。
突然父が家に居るようになり、仕事にも行ってました。自分はもう病気は治ったんだと盛大な勘違いをしてました。
その勘違いからか、家ではソファでゴロゴロして母の手伝いをしない父に正直イラついてもいました。
今思えば、思春期でもあったからかもしれません。

月日が経ち、6年に上がった頃、隣町の病院に入院するようになり夏頃の最後は姉妹のお見舞いすら父から拒否するようになりました。


そして、7月の父の誕生日からすぐ、
父はこの世を去りました。

膵臓癌。
葬式の時に初めて母と父方の祖母に教えられました。

伝えられた時、母に「パパが死ぬことわかってた?」と聞かれました。
その時自分は「病気だということも分からなかった。」と答えました。

けど、後々考えて気づきました。

父はお見舞いの時、面談時間が終わり帰る時に必ずハイタッチをしてくれるのですが、
そのハイタッチの力が月日が流れるたびに弱まっていくことに。
そして、最期はハイタッチすらできずにずっと眠っていたことも。

この気づいた話は母にもしたことがないです。


黄疸も膵臓が悪い証拠、
でかい病院は症状が悪化してたから、
帰ってきたのはもう末期だったから、
お見舞いを拒否したのは末期の苦しさを自分たち姉妹に見せないため。

色々分かってくるこの年になると当時の記憶と事実が結ばれてきて、後悔が押し寄せてきます。

もう一度やり直せるならしっかり事実を受け止めて過ごしたかった。
そう思います。


そんな、父が亡くなった年頃から自分の体調や精神的に異常が出てくるのですが、それはまた中学の話の時に。


長い拙い文章をここまでありがとうございます。
皆さんも両親とは悔いのないように。
自分も母を父の代わりに守り抜きたいと思います。


それでは、また。


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