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50代のおばさんがうつ病になりました【続編】

 うつ病を発病してから1年になろうとしている。こんなに療養する予定がなかったし、私が専業主婦のように家に居るのが当たり前のように家庭の風景になっているのが、考えてみると不思議である。 
 次女にしてみると、私がいくら体調悪そうに横になっていたとしても、学校から帰ると私が家に居て「おかえり」と声だけのお迎えでも嬉しいようだ。
 次女には、物心ついた頃から私が昼間に家に居るということがなかったので、常に寂しい思いをさせてしまっていた。働く既婚女性の背中を実際に見せてやりたいという思いと、経済的理由でパートタイマーではなくフル勤務で働いた。まるで放ったらかしているような申し訳なさで後ろ髪を何度も引かれる思いをしていたのも事実。

 去年に比べれば体調は、間違いなく良い。頭のなかの蜘蛛の巣はだいぶ除去されている。しかし、恐ろしいのは、突然ガクンと崖から落ちたように体調が悪くなる時がある。それは精神的なショックによってスイッチが入る。何が原因でこのスイッチが入るのかわかっている。精神面がとっても繊細になっているようだ。ちょっとしたショックから起こり、ショック内容は多岐にわたる。これもうつ病の症状からくるものなのだろう。
 スイッチが入ると、もう胸がザワザワとして落ち着かない。スーパーへ行って、買い物客がわずか数人の中でも赤の他人がいるのが嫌で嫌で泣きそうになり早く家に帰りたくなる。そして、頓服の抗不安薬を服用して横になる。
 以前までは、ほぼ毎日こんな状態だった。スイッチも何もなく、常に深い沼にいて、沼から出て世間に出るとザワザワと苦しくなっていた。今はスイッチが入った時だけなので、そんな状況になることの回数は減っている。減っている分、それが起こるとインパクトが大きく感じて落ち込みも大きい。
 ならば、精神に優しい生活を送れば良いのだが、そうもいかないのが世の中だ。できるだけテレビを観ず、朗読をBGMにして目にも耳にも優しく生活を送っているつもりだ。しかし、辛い出来事は突如やってくる。心の友として温かく見守っていたカラス親子が巣ごと撤去されてしまったのだ。

 前回のエピローグで書いた通り、私は彼女を自分と重ねて見守っていた。世間から嫌われているカラスだが、自分の使命を全うしながら次に命を繋ぐ作業を健気に行っている。一方で私自身、世間に何の貢献もせず、生きている意味も見出せず世間では不用ながらに只々生きている私。カラスと私は何が違うのか?人間と鳥の違いだけ。不用とされてる似てる私たち。
 私は朝起きると彼女の無事を確認する。小さく「おはよう」と挨拶をする。雨が降れば巣が壊れはしないかとハラハラしながら何度も確認したりした。
 産卵直後や孵化直後の母カラスは気が荒くなる。何度も見ている私を彼女は私の顔を覚え、ベランダから顔を出すだけで威嚇しにくるようになってしまった。「私は敵ではないよ」と彼女に優しく言い聞かせながらベランダには出ず、室内の中から彼女等を見守るようになった。娘達も嬉しそうに見守った。
「ママ!赤ちゃんが見えるよ」
「本当だ!一羽だけかな?」
 カラス親子の生活を実際に見たことはなかった。今まで見ていたのは街中のゴミが散乱している中で大きなカラスが群がっている図だった。子育て中のカラスを注意深く見ていると、どうやら二羽で子育てしているということに気がついた。あの二羽は夫婦だろうか。一羽がヒナを巣の中で守っている間、もう一羽がエサを獲りヒナに与えに戻ってくる。「へぇ」とカラスの習性など全く知識のなかった私は感心していた。
 ある日の夕方、次女からLINEが届く。「カラスの巣撤去されてる」私は慌ててベランダに出ると、電柱と電線をうまく使って作られていた巣がキレイに姿をなくしていた。私は、クラクラと軽いめまいを感じてソファにグタッと横になった。
 クチバシをパクパクさせて食べものを要求しないとまだ生きてはいけないふわふわの綿毛のヒナはどうなったのか。どのように撤去されたのか。大人のカラスは何羽もあちらこちらで鳴きあって、ことの顛末を知らせ合っているようである。
 ショックは大きく私にぶつかって跳ね返り、よろめく体はソファに押し倒される。そして体に頭にショックの塊は吸収されるのだ。
「ほらね。カラスは不用。私も不用」
 目を開けてはいられない。頓服薬に頼る。そして現実逃避で寝てしまう。

 こんなことをショッキングエピソードの度に繰り返している。とは言え、これほどのショックはまだ味わってはいないのだが。

 巣が撤去された後のカラス達の共鳴が、忌まわしく恐ろしいものを呼んでいるように、平和な住宅街に響き渡っていた。一方で、愛しい我が子を探す悲しい母の呼び声のようでもあった。

 あのカラス達は、別の場所へ行ってしまったのか、カラスの鳴き声を聞かなくなった。新しい場所で新しい生活を送っているのか。生きていくには、私のようにいつまでも悲しい事件を引きずっていられないのかもしれない。

 次女と、この『カラスの巣撤去事件』を憂いあった。
 「ママ、赤ちゃんはどうなっちゃったの?」
「わからない。それはママも知りたい」
「せめて巣立ちまで撤去の予定を延ばせなかったのかな」
 横になる私の枕元で次女が呟いた。
 いつもは友達とLINE通話や何やらしていて、今どきの女子高生らしく自室に閉じこもっているのだが、この日はなかなか自室に戻ることなく私の周りから離れない。
 この『カラスの巣撤去事件』で、愛らしく可愛いらしい小さなな者への愛情の置き場が、お互いにぽっかりと空いてしまっているのだ。もうどうすることもできない事案だけれど、次女と語ることでお互いを慰めあうことができているのかもしれない。
 私自身かつて、小学校低学年の次女を巣に残したまま仕事に明け暮れていた。
 この『カラスの巣撤去事件』を題材に次女と語らうことで、私たち親子の、いや、次女の寂しかった時期の空白を埋める作業の一部になるのだとしたら、体調を崩してしまうエピソードだったけれども、私には必要な事件だったと認めざるを得ない気もする。



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