物作りの零度


高校時代にテレビや新聞から部活動の取材を受けたことがある。それについて今でもはっきり覚えている嫌な記憶として「物語を勝手に創造される」ことがあった。「友情」や「仲間」といった聞こえのいい言葉で部活動員たちの関係性を規定され、「挫折を跳ね除けて掴んだ成功」という筋書きでイメージを植え付けられることに言葉に言い表せない居心地の悪さを感じた。部活動の雰囲気が格別悪かったわけではないし、取材をされるぐらいの結果を出したことに達成感も抱いていたが、あまりにも外野の都合の良い解釈で「物語」にされたことが嫌だったのだと思う。
小説や戯曲、映画に現れる物語を学術的に研究する物語論の分野には、「イストワール(歴史叙述)」と「ディスクール(言説)」という二つの概念がある。前者は「出来事それ自体が語っている」ような類の物語で、後者は語り手(特定の「作者」に必ずしも限定されない)が何かしらの影響を読者に与えようと試みながら語られる類の物語である。あらゆる学術的概念がそうであるように、両者ははっきりと区分できるものではなく、ニュートラルに見えるイストワールが実は何かしらの意図が込められたディスクールであったという分析も頻繁に行われている。
この概念を自分の記憶に当てはめるなら当時感じていた忌避感は、自分達がマスメディアの言説の素材にさせられたことの居心地の悪さに起因するのだろう。ただ年齢を重ねた今、未熟な若者達が情熱だけを頼りに何かを成し遂げるという部活動は「キラキラした青春」というイメージを売る言説にとって格好の題材であることも理解できる。
ダウ90000という8人組のコント・演劇ユニットが好きだ。カオティックな状況を笑いに変えるという大人数ならではの強みなどハマったきっかけは様々だが、最も強く惹き込まれたのは下北沢・本多劇場の単独ライブの舞台裏を見たからだった。

「各ジャンルで活躍する注目のスターを追う」この番組は、アーティストのリアルを見せようという強固な意志に基づいた言説以外の何物でもない。しかし興味深いのはそうした明示的なメッセージに還元され得ない物作りの瞬間が捉えられる点だ。公演を目前に控えたメンバーの忽那が作・演出を担う蓮見に追加の稽古を依頼する。問題となるのは今までの稽古で一度も上手く言えなかった「米、踏んでない?」という忽那の台詞である。しかしこの直前の稽古になっても蓮見はOKを出さない。台詞をひたすら繰り返す忽那と「違う」と言い続ける蓮見。念の為補足しておくと、これは無理難題を押し付け俳優を精神的に追い込むハラスメント的演出では一切なく、蓮見の指示とそれに答えようとする忽那とのただの稽古である。この稽古の単純性は、「スターの意外な一面」などという美辞麗句では片付けられない。何しろ画面上は「米、踏んでない?」という聞き慣れない台詞が延々と繰り返されるだけなのだから。
時間をかけて何かを成し遂げるという行為は、実は本質的に「零度」なのではないかと思う。「アツいね」などとつい口走ってしまうがそれはまやかしで、実際は地味な作業をひたすら続けるだけだ。「米、踏んでない?」という台詞を演出が与え、それを役者が言う。指示と異なれば違うよという言う。「スター」の単独ライブの裏側はこうした行為の積み重ねでしかない。こう書くと地味な作業を一歩一歩積み重ねた先に成功があるというこれまた使いまわされた言説に回収されてしまうかもしれないが、ダウ90000の舞台裏にはその「熱さ」すらない。その証拠にというべきか、結局問題のセリフは「米、じゃない?」という忽那が言いやすい台詞へと置き換えられる。一つ一つの選択が全体にとって「良い」のか「違う」のかを決め続ける。その行為に伴う感情の温度など「零度」に過ぎない。
しかしこう考えることは創作や地道な作業を貶めるわけでは決してない。むしろその逆だ。言説が与える分かりやすい物語に沿って感動や興奮を覚えることも悪くはないが、もっと行為の真の温度を感じても良いのではないか。一つの台詞を言う。一つの文章を書く。創作物に感動するとは、その都度の選択を生きた創作者達の零度の体温を感じることに他ならない。

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