父が憎くて仕方ない
長年に渡る、父からのきょうだい差別と侮辱。
遠慮会釈もなく、思ったままを
率直にズケズケ言う暴言と失言に
「早く死んでしまえばいいのに」と
思った事がありました。
親に対し、このような感情を抱く事は
御法度な事は重々承知の上です。
だから誰にも言いませんでした。
ずっと心にしまっておいた事。
病に倒れ闘病6年後に息を引き取った際に
悲しみよりも正直、ホッとしたのも事実です。
これでやっと解放される。
私の本当の人生が始まる。
これからは好きに生きてやる、と。
きょうだいは4人いましたが
幼い時期に命を落とし、
私たちはたった2人の
きょうだいになりました。
幼少期は喧嘩もしましたが、
どこにでもいそうな普通の
仲の良い兄妹でしたね。
お互い子ども時分はそこまで
激しい差別はなかったからです。
兄が中学2年の時は家庭教師をつけました。
一度だけ(1科目か合同テストか不明)クラスで1番良い点を取ったらしく
(真相はわからない)その事が父にとってはこの上なく嬉しく最大な誇りとなり、
何十年たった後でも親戚や近所に自慢してました。
思い出す度、父は目を細めて過去の栄光を称賛してました。大した成績でもないのに「息子は天才だ!神童だ!」と異常に過大評価していました。それは何にしてもです。
兄は県立高校を卒業する少し前に、既に某所に就職が決まっていました。
父の妹の夫が働く役所(国家公務員)の長に叔父経由でお金を渡し、叔父と同じ職場に就きました。
覚えています、100万円札に帯が巻かれた札束3つを裸で渡す場面を。
「これで頼む」と。
叔父は、義理の兄には逆らえない、不正であっても断りきれない、
そこには逃げ場のない父の権力が分厚い壁のように立ち塞がっていました。
その強引なやり方に叔父は苦労したと同情せざるを得ません。
よくよく考えてみると周囲から疑念を持たれないはずもない。
後々、短期間いじめがあったとかなかったとか・・・・・
叔父と同じ職場に入れるなんてコネや不正以外にあるわけがない。
兄に対する父と母の正視に耐えない寵愛ぶりは異常でした。
私には「銭など要らん!」と刷り込み、
兄には「金の心配はするな、
なんでも買ってやる」と言っていました。
自転車など、友達がみんな持ってるもので
私も欲しいと言うと
「人は人、うちはうち」と
けんもほろろに相手にされませんでしたが、兄には惜しみなくなんでも
最高級クラスのものを買い与えてました。
高校2年の時は350ccの大型バイク(新車)、高校卒業時には当時大人気だったスポーツカー(新車)を買ってあげてました。
私も通勤に車が必要で、もちろん買ってもらえるはずもなく、自分で分轄払いで購入するつもりで保証人を頼みたいと父に懇願すると
「ダメだ」と一発で断られましたね。
父の口癖は
〇〇(兄)は偉いんだ!
これからは殿様だと思え!
男は偉いんだ!
男は何をやってもいいんだ!
テレビの前で寝っ転がりながら、私に対し「〇〇を買ってこい!車を洗車してこい!腰を揉め!〇〇が食いたいから今すぐ作れ!」と
指図したり威張ったりパシリに使う姿を見て満足してるのかニコニコしてる、そんな父でした。
私がひとたび、兄を呼び捨てにした時には「兄貴に向かってその口の利き方はなんだ!馬鹿者っこの!」と劣化の如く顔を真っ赤に激昂し、父は私を罵倒しました。
小さな頃から、私は「馬鹿者、バカ!」と言われ続けて育ちました。
私は馬鹿なんかじゃない!
心の中でいつも呟いてました。
そんな私はテストで良い点を取っても、褒められる事はなく、これが異常な差別というものか、と日々不満を募らせるようになりました。頑張って勉強していると「勉強なんかするな、カネがかかる」と怒られた事があります。
大学に進学したいと言われたら困るのです。
今考えると、なんと言う親なのだろうと。
当時は「勉強しろ勉強しろ」と口煩いよりはマシか、と勘違いしておりました。
兄は高校生の頃、隠れて煙草を吸っても、モデルガンを隠し持って父に見つかっても、
黙って外泊しても誰にも咎められる事はなく、
逆に父はそんな成長した息子が可愛いくて仕方がないようでした。
「男はいいんだ!
何をやってもいいんだ!」と。
父は子供の教育に関して一切お金をかけたくない人で、
「女に高等教育は要らね!気位ばり高くてめんこくねー」(女の子に大学も専門学校も高等教育は必要ない!プライドが高くて生意気になる)が口癖でした。
子どもの幸せなどこれっぽっちも考えず、自分の考えが1番正しくそれに無理矢理従わせる、
傲慢でワンマンな、威張る事だけが自分を守るための手段だったと思います。
要は、弱い人間だったのです。
自分より賢い女は許せない、男に意見する女は気に食わない、生意気な女は猛烈に邪魔だったのです。
何も言わずにただ黙って付いてくれば良い!
文句は言わせない!
それが母でした。
母は、父の傲慢な振る舞いにひたすら我慢して付いていき、うつ病を発症するとまもなく病になり、亡くなりました。
母の人生は幸せだったのか、決して幸せではなかったと思いました。
自分のものは何も買わずに、いつも安物のボロボロの服を纏い、母の日や誕生日に私が何かプレゼントを贈っても勿体無いからと箪笥の奥にしまっておくような人。
働いたお金はすべて可愛い息子のためだけに使いました。
ある日、私が小学高学年の時だったと思います。母と一緒に自転車でスーパーに買い物に行った際、スーパーの斜向かいに(安価)衣料品も販売する小さな雑貨店「京都屋」があり、何か買うのかなと母を見ていました。
すると、花柄の綿のブラウスを30分も迷った挙句、結局買わなかったのです。
値札を見ると350円。赤札でした。
悔しさと情けなさでなんとも言えない気持ちになったものでした。
貧乏はこんなにも不条理で惨めなものか、350円のブラウスすら買えない。
買えないのではない、敢えて買わなかったのだ。
それを買う余裕があるのならば、母は可愛い息子には何不自由のない生活をさせてあげたい、その分なんでも買ってあげたい、それが父と母の息子への溢れる愛であり幸せだったのでしょう。
幼少期の性被害、あれがもしも私ではなく被害者が兄だったら、その加害者である相手を父はきっと殴り殺していたと思います。
私だったから何のフォローもなく「子どものことだ、そのうち忘れるだろう、覚えてないだろう」と、たかを括っていたのかもしれません。
実家は小規模農家で農閑期は父と母は土方(土木作業員)として建設会社で汗水流して働いていました。
「土方」の事は恥ずかしくて誰にも知られたくなかったですが、他にもいたのだろうと思います。
だとしても、貧しさを明らかにするようで嫌で嫌でたまりませんでした。
何かの書類に父親の職業を記載する時は「農業」と書きました。
農繁期の忙しさと言ったら尋常ではなく、私も手伝いました。
朝から晩まで汗水流して働いても貧乏で、土日もない、天候に一喜一憂する農家の生活は嫌で嫌でたまりませんでした。
元々、裕福ではないですが、
「カネだけあっても幸せではない」が
口癖でした。
貧乏を肯定させるような育て方でした。
カネは悪だと。
勉強を頑張って良い大学に入り、良い会社に就職し、裕福な生活というごく普通の考えを父は全否定していました。
私は建築模型や鉄道模型に興味があり、
小さな頃から自分なりに独学で建物を作って遊んでおりました。
建築系の大学に進学したかったですが、もちろんそんな希望など言えるはずもなく、
「自分の好きな事で生きていけるほど世の中甘くない!そんな事ができるなら誰も苦労はしない!馬鹿者!」と一蹴されました。
今思えば無理やりにでも奨学金を借りて大学に行けば良かったと後悔しています。
50過ぎてもその時の借金を返済していたと思いますがそれでも大卒と高卒では収入の格差が大きく、高卒の私が見習いから独立するまで複数の設計事務所を渡り歩き、長く下積み修行した時間は長く険しく、大卒からは遅れを取りました。
この業界で身を立てたい私は父からは勘当同然でした。
世間を知れば知るほど、
父は歪んだ人格である事を
思い知らされました。
先に死ぬ親は私の人生に責任を持たない。
親の人生ではない!
私の人生なのだから自分で決める!
これがすべての原動力になりました。
お金がなくて苦しくても愚痴は溢さず、弱みを見せず、バイトで食い繋いだ時期も何度もあります。
やっと独立した時も法人化した時も
父は認めてはくれず、もちろん褒めてもくれず不服そうでしたね。
女の幸せは結婚だ!子を産み育てる事だと。
高校を卒業したら、俺にコネがあるから経済連(経済農業協同組合連合会)に入れ!口利きしてもらった!農家として有利になるメリットが欲しいのでしょう。
20代前半で結婚し、子どもを産み、夫を支える、姑には仕えるもの、それが女の幸せだと言い張ってました。
「一番大事なのは〇〇(兄)だ。
どうせそのうちこの家を出ていく〇〇(私)なんか俺には関係ない。」
ある日、父が親戚とそう話していたのを
陰で聞いてしまった時はとてもショックでした。傷つきました。私の人生など父にとってはどうでも良いのだ。
何をしても肯定せず、自分の思い通りにならないと私に対して
「馬鹿者!バカ」と言い続けていると、不思議なもんですね。
兄も自然にそうなっていきました。
自分は偉いんだと言われ続ければ、そう勘違いして育ちます。
兄である自分に対して服従しないと私を「馬鹿者っこの!」と罵倒し、見下すようになっていきました。兄は意味もなく威張る、顎で使う、
そんな上下関係を見て父は喜んでいました。
初めての子は無条件に可愛いのだとよく聞きます。ましてや男の子となるとその可愛さとその待遇は計り知れません。
時代錯誤も甚だしい、男尊女卑が著しい家庭環境でした。
兄は親の庇護のもと、父が倒れる直前まで殿様のような座に座っていられました。
父が生きてる時は絶対に言えなかった
不満の数々、傷ついた日々、
次は「トラウマ返し」で綴っていきます。