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トラウマ返し

トラウマ返し❶ 学生に銭は要らない

兄には十分過ぎるほどの小遣いを渡していましたが、私にはゼロでした。
兄は特別待遇です。
身につけるものは「欲しい」と
ねだる前に買ってあげてました。

なので私は参考書を買うためと
多めに申告し、そのお釣りを
誤魔化してやりくりしていました。

父の口癖は私だけに言う
「学生には銭は要らない」でした。

そういう状況だったので
夏休みや冬休みは可能な限り
バイトをしました。
兄はバイトすらした事はなかったですね。
する必要もなかったので。

私はゴルフ場でキャディ、焼肉のタレの実演販売、スーパーのサッカー業務(袋詰め)、道路工事、草刈りなど。それでも高校生ですから大して稼げずいつもカツカツでした。

トラウマ返し❷社長に文句言ってやる

何の経験もない自分を
見習いから雇ってくれた社長達には
感謝しかありません。
独立までの下積み時代は
薄給な上に帰りも遅く、
それでも私は毎日充実していました。
学ぶ事に喜びを感じていたからです。

そんな時、給料が安いとか、 
帰りが遅いとか例の如く
文句を言い始める父。
「社長に電話してやる!
もっと早く帰せ!って言ってやる!」
と、物凄い剣幕で電話をかけそうに
なるのを毎回止めて喧嘩になりました。

もういい加減にしてくれ!
仕事の邪魔をするな!

給料が安いのは高卒で見習いだからです。
帰りが遅いのは仕事が忙しいのと
何でもやらなければいけない
一番下っ端だからです。
高卒だから仕方ないんだよ、お父さん!
高卒は大卒の何倍も何十倍も
努力しなくてはいけないのです。

今は違うかもしれませんが
高卒は職人になるか起業するしかない。
極端ですがそれが現実でした。

唇を噛み締める、
悔しい思いも数えきれません。

周りはみんな大卒、その中で
高卒の自分を拾ってくれた事だけで
感謝すべきなのに。

その後、私は実家を出ました。
生活は苦しかったですが、
誰にも文句を言われず
思いっきり仕事ができました。

いつか自分で会社を持つという
漠然とした目標を持ちました。

トラウマ返し❸披露宴の列席者

結婚式に関しても父は文句ばかり
言ってましたので辟易としました。
元夫側の列席者について
「子どもしかいない」と。
少人数の披露宴、家族で列席して
くれた方が多く必然的に
子どもも多い割合になりましたが
こんなことで文句を言われる
ことでしょうか?

トラウマ返し❹兄貴にお伺いを立てろ

結婚してまもなく私たち夫婦は
互いの親からの援助を一切受けずに
自分たちの予算で住宅ローンを組み、
新築分譲マンションを購入しました。

その事を父に話すと突然激昂!
「馬鹿者!マンションなんか
勝手に買いやがって!
誰が買って良いって言った!
候補が上がった時点で
《こういうのがあるのですが
買っても良ろしいでしょうか?》と
兄貴にお伺いを立てるのが先だ!
マンションなんか買いやがって!
郊外ではあるが〇〇町で一戸建てを
買えば良いんだ」と
頭ごなしに言われた時は、
怒りで動揺が隠せなかったですね。

自分たちの予算で購入した事を
褒められるどころか、
こんな理不尽な事があっていいのか、
悲しくなりました。

買っても良いか・・・お伺いって何だよ!
どう言う意味だ?

購入資金の一部でも出してくれるだろうと思ったのか(出して欲しいとも出してくれるだろうとも私はこれっぽっちも考えてない)、兄はもちろんそんな事をするような男ではない!
が、それで私たち夫婦を
支配させようとしたのか。

購入資金の一部を父の財布から出し、
あたかも兄がお祝いとして
出したかのようにしたかったのだと
察しました。
恩を着せ、弱みを握り兄に服従させるため。
トンデモない話だ。

トラウマ返し❺お年玉も持ってこない

元夫が正月明けに用事があり、
私の実家に1人で顔を出した
事がありました。
帰った後、怒りまくった父から
私の携帯に電話がありました!

「〇〇(夫の名前)のアノ野郎!帰りやがった!お年玉を持って来ないで!
馬鹿者!」と電話口で元夫の事を
非常識な男だ、気の利かない男だと
文句タラタラでした。

また始まった!
もう呆れるしかありませんでした。
孫たちにお年玉を持って来なかった事が
相当逆鱗に触れたようです。
現金書留ですぐ送れ!と催促されました。

私の気持ちは実家からは
さらに遠のいて行きました。
お年玉如きで人格を全否定され、
ここまで罵倒されるとは。

トラウマ返し❻こんな安物

父の日に元夫が、父の好きな銘柄の
ビールを箱で買い、
2人で実家を訪れた時の事です。
虫の居所が悪かったのか、
何が気に入らなかったのか、
夫にお礼を言うどころか
「こんなもの!こんな安物!」と
言われたのは流石に忘れられません。

誕生日プレゼント(腕時計)にしても
ウイスキーにしても、
夫の実家からのお中元の品にしろ、
いつもそんな態度でした。

感謝の言葉はもちろん、
素直に喜ぶ事がなぜ出来ないのか、
悲しく、人として恥ずかしく、
心底情けなくなりました。

その後、父は病に倒れ、
大好きなビールすら飲めない
身体になったのは因果応報だと思いました。「天に唾すれば我が身に返る」
という諺の通りです。

トラウマ返し❼体外受精しろ

結婚し3ヶ月以内に妊娠できなければ
村を追い出された時代がありました。
そんな夫婦は「子もたず」と
村人たちから呼ばわれていました。

それが私の実家の界隈です。
子ができなければ一家にとって
不都合極まりない存在であるばかりか、
村にとっても「不幸の根源」であり、
「穢れた存在」だと見なされました。

昨今は追い出されるまでに至らなくても、
子を産まない、子ができない女は
居場所がなかったのです。

無神経な中傷や皮肉・嫌味に傷つき
肩身の狭い思いをされてきたはず。
閉鎖的で自由のない村社会は
苦痛以外の何ものでもありません。
不寛容で差別主義、障害者にとっても
至極生活しづらい環境だと実感します。

私たち夫婦は子どもがなかなか授からず、
不妊治療をしてきました。
披露宴の最中から「早く子どもを!」
の催促がありプレッシャーに
押し潰されそうでした。

そんな中、父から言われた言葉、
これがなかなか堪えました。
こんな事を親である父から言われるものなのか、傷つきましたし驚きました。

「体外受精しろ!」

一番繊細な部分に錆びた鉈で
殴りかかられたようでした。
どうせなら鋭利な刃物で
切り裂かれた方が
まだマシではなかったのか、と。

誰にも言わずにつらい不妊治療を
何年も続けていた最中でした。
結局、メンタルの持続と縛られる時間と
高額な治療費が続かず途中で断念しました。

そんな中、何かを察したのか、
優しい母は父に隠れて私の携帯に
電話をかけてきました。

「子どもなんか要らないから、
苦労するだけだよ、それより
夫婦仲良くが一番だよ」と。

携帯電話を握ったまま、
人目も憚らず泣きながら
街を歩いたのを覚えています。
母の思いやりがありがたかったと同時に
孫を抱かせてあげれない自分が
不甲斐なかったのです。
それが最後の会話となってしまいました。

トラウマ返し❽何を言われても我慢しろ

「犬を飼う前に子どもをつくるのが
先でしょ!親に孫を抱かせてあげないなんて
親不孝だ」と義姉から罵られました。

「ねぇ、お父さんから定期的に
お金もらってるんでしょ?
(勿論もらってない!)
100万円でいいから私にもお金を回してよ!」とお金を無心された事、
なかなか結婚できないのは
この家が呪われていると
義姉が言い出しました。

子どもが出来ないことなど、
口の悪い義理の姉からの数々の暴言や嫌味を父と母に初めて話した時
「いいか!何を言われても我慢しろ!
兄貴を立てろ!逆らうな!」と
父から言われた時は
心を深く抉られたような思いでした。
その時、母は俯いたまま、
黙っていました。

その時、耐えに耐えた心の奥で
プチッと鈍い音がしました。
私の中の堪忍袋の緒が切れる音です。

「父よ、早く死んでしまえ」
心の中でそう思ってしまったのです。

子が親を殺めてしまう事件も多い中、
私にはその気持ちがわかるような気がします。
それなのにあんなに憎くて仕方ないのに、
憎みきれないのも事実です。
虐待された訳でもなく、
感情的で明らかに間違っているにも関わらず自分の主張を通し、
差別とモラハラだらけの環境ではありましたが育ててくれたのも真実。
私にも情けというものが少なからず
ありましたからね。


トラウマ返し❾季節の節目には挨拶に来い

私が結婚してからの父の
尋常ではない高圧的な態度と
横暴ぶりは目に余るものがありました。
私を見下し、居丈高に命令する様は
父にとってもはや娘ではなく
奴婢のようでした。

嫌な思いをするのでなかなか実家に
顔を出さない私たち夫婦に
父は苛立ちを隠せなかったようです。

「非常識だ!季節の節目節目には
手土産持参で実家に挨拶にくるものだ!」と鬼の形相で言われました。
外国にでもいるかのように
段々と心は離れて行きました。

トラウマ返し❿今度は国土交通省へ

ある日、国土交通省で働く従姉妹
(父にとっては姪)に
「〇〇(孫)を国土交通省に入れてくれ!
金は用意した。頼む!良いだろ」
と半ば強要気味に言った事がありました。

従姉妹は当時、どんな役職だったか
知らないが一職員。
そんな権限があるにしろないにしろ、
迷惑な話です。

従姉妹は4年生大学卒業、
国家公務員採用試験に合格し、
業務区分ごとに採用面接試験(官庁訪問)を正規の公務員試験を受けて職員となりました。

それなのに父はまたもや、
自分の息子の時と同じように大学にも入れず、その上、正規の試験をすっ飛ばして、
今度は孫を金で入れようとしていました。

田舎は特にこのように袖下(金)を積んだり、縁故採用が普通です。
例えどんな手段を持ってしてでも
入ってしまえばこっちのもんだと
思ってる節があります。
後で苦労するのは本人ですよね。

国土交通省の件は、従姉妹が
あからさまに怪訝な顔をしました。
私も「また始まった!またそんなこと!〇〇ちゃん(従姉妹)だって迷惑だよ」と 
父に向かって言うと
「テメェなんだと!」と激昂。
思い通りにならないと
人を平気で罵倒する、その暴言は
手がつけられず、ヤクザのほうが
まだマシだと思いました。

そんなことばかりやって、
世の中、通用すると思い込んでいる父の
浅はかな思考に呆れてものが言えません。


トラウマ返し⓫口出し

私の仕事は忙しい時は、
土日も朝も夜もない。
すべてクライアント次第なので
自分の勝手な都合はほぼ通用しない。
仕事とはそういうものだと理解しています。

起業したことも、私の業界にも
詳しくない父は口を開けば
私の仕事に口出ししてきました。

「私は9時から5時までしか
仕事しません、と客に言え!」と。

何様だ?
と、呆れるしかありません。

私はアーティストではありません。
顧客のニーズに応えるのが仕事。

以前、勤めていた会社の社長が
よく言ってたのを思い出します。
社長はまだ携帯電話を持っていませんでした。わざとだと思います。

「僕に連絡が取れなくても、
クライアントは僕と連絡が取れるまで
僕をひたすら待っててくれるはず。
いつでも連絡が取れる人は便利なだけ。
結局はその仕事は誰でもできる仕事。
でも、僕は違う、僕にしか頼めない仕事、
僕じゃないとできない仕事だから、
僕がつかまるまでクライアントは
待っててくれるんだよ」と。

そんな社長もある日、夜逃げしちゃって
周りに多大なる迷惑をかけました。
今、彼はどこでどうしてるのか
わかりません。
生きているのかすらわかりません。

自分を鼓舞するのと
人を不快にさせる言動は違います。
自信を持つのは良い事だが、
もう少し謙虚であったなら
人も付いてきただろうに。
会社もまだ存続していたかもしれません。

あの会社は人が入社しても
すぐに辞めていきました。
社長だけが良い思いをしていたからでしょう。社員は待遇面でも最低ランク、
これではモチベーションが上がりません。

彼のもとで働き、彼の言動を聞かされ、
私は仕事以外にも様々なことを学びました。
そういう意味では感謝しています。


父は、「貧乏を脱するのは教育」なのだと言う事をなぜ学ばないんだろう。
「米百俵」という言葉を知らないのか、、

高卒では、入りたい企業に
エントリーすらできないのだ。
実力社会だという仕事もあることはあるが、高卒では出世もできない、
給料も低いのが現実だ。

人生、ズルをすれば後で必ずツケが回ってくるもの。ズルをしたまま渡り歩けるほど世の中は平坦ではない。


なぜあんなふうになってしまったのか、口が悪く憎まれ口ばかりきいていた父は親戚からはよく陰口を叩かれていました。
それでも何かあると父を頼ってくるのもその親戚たちでした。それは借金だったり様々で、頼られれば二つ返事で力を貸していました。

最後までわかり合う事はなかった父と私。
父が病に倒れた6年間は私は車で片道2時間かけて病院を訪れ介護に明け暮れました。

「植物人間になる」と、主治医に断言されていましたがどうにか自分の手で食べるまでに回復した時は素直に嬉しかったです。

父はどう感じていたのでしょうか。
病の後遺症は重く、残念ながら
話す事も意思の疎通も叶いませんでした。

どんなに私が頑張ったとしても、
食事の介助をして食べる事の喜びを
実感できるようになっても、
世界で一番可愛い我が息子が例え何もしてくれなくても、たった3秒でも病室に顔を出してくれただけで100倍嬉しいんだと思います。

父にとっては自分がどんな
身体になってしまっても
息子だけがこの世で何ものにも
変えがたい宝物です。
この、愛すべき息子のためなら
自ら命を投げ出す事だって容易なのです。

父に認められなくても褒められなくても、
身内に誰も味方がいなくても、
虐げられどんなに馬鹿にされても、
それでも腐らず、逞しく生きてきた自分を
褒めてあげたいです。

一度でいいから「よく頑張ったな」と言われたかったです。

きょうだいというものは
生まれた瞬間から親の愛情を
競い合うものなのかもしれません。

乳母日傘で育ち、蝶よ花よと
大切に大切に育てられ、
何でも与えてもらい許してもらっていた兄と真逆の人生を私は歩んできました。

裕福ではないのに、その、
恵まれた環境で育った事を
兄自身は自覚してません。
きっとそんなものです。
友達や知り合いにも数多くいます。

私が結婚する少し前、
母と2人きりになった時、
詫びるような目でこう呟いていたのを
時々思い出します。

「〇〇(私の名前)には
親としてなんにもしてあげなかった。
でも、偉いね」と。
その言葉だけで少し報われた気がしました。

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