クンツ博士の生涯が素敵すぎて映画化希望 - Vol.1
クンツ博士と聞いて、反応する方は石界隈の住人である事は確定です。
博士の名前は一種のリトマス試験紙のようなものではないでしょうか。
・クンツ博士 = クンツァイト
宝石図鑑などの情報から、博士の名前に因んで名づけられた宝石、クンツァイト絡みで知っているという方は多いと思います。
・ティファニー社の副社長だった
また、もう少し詳しい方であれば、勤めていた会社までご存知の方もおられるでしょう。
しかしながら、クンツ博士の功績や今にも残る影響力から考えれば、そんな事は些細な事かもしれません。
実際、クンツ博士は宝石・鉱物の世界にて多彩な活躍をされています。
博士の功績を一言で表現するとすれば、
宝石(特に半貴石、カラーストーン)の在り方を現在の形に導いた方
と言っても過言ではないと考えます。
また、その影響はジュエリーのみならず、博物館展示、パワーストーンなどのスピリチュアルな方面にも残っています。
仮の話ではありますが、小学校の図書館によくある偉人伝(トーマスエジソンや二宮金次郎などなど)の本において、石界から誰か推薦するという話があれば、間違いなくクンツ博士ではないでしょうか。
今回、そんな石界の巨人クンツ博士について、下記の5つのパートに分けて書いていきたいと思います。
Vol.1 - 少年・青年時代の情熱
Vol.2 - 新宝石普及への挑戦
Vol.3 - 研究者として
Vol.4 - 今も残る影響
Vol.5 - ゆかりのある宝石達
本ページは Vol.1になります。
Vol.1 - 少年・青年時代の情熱
10歳の時から始まった石への情熱
クンツ博士こと、George Frederick Kunz氏(1856 - 1932年、享年75歳)はニューヨーク州マンハッタンという都会で生まれました。
石への情熱を持ったのは、10歳の時にニューヨークのブロードウェイ付近にあり当時人気を博していたバーナムズ・ミュージアムを訪れた時でした。
そこで展示されていた鉱物標本のコレクションに魅了されたのが全ての始まりだったのです。
その時のことを生涯を通じて数多くの世界レベルの宝石・鉱物標本を見続けてきたクンツ博士をして、
『 私の目はおそらく他のどの生きている人の目よりも多くの素晴らしい宝石を目にしてきましたが、古いバーナムズ・ミュージアムの価値のない石たちほど、私にとって魅力的で美しいものはなかった。』
と回想インタビューで語っています。
時代も味方しました。
都市部の生まれ・育ちでは、鉱物採集とは無縁と思われますが、この頃ニューヨーク・マンハッタンでは大規模な道路舗装・トンネル掘削や高層ビル基礎工事、鉄道の延伸などの都市開発工事が各所で行われていました。
その危険な工事現場に立ち入り、命と肉体を危険にさらしながら、リスが木の実を集め貯蔵する如く、休日の全てをクンツ少年は石探しに捧げたそうです。
◆
14歳の時からは、交換のために海外に鉱物標本を送り始め、大学や博物館との繋がりも作っていきます。
後に中退する事となる大学の夏休みには、総数4000、重さ2トンになる最初のコレクションを完成させ、それをミネソタ大学に売却しています。
この鉱物標本コレクションの売却を、お金を得るというよりは、本物の収集家として自身を世間に認知させる目的であったと語っています。
◆
これらの話から10代のクンツ氏は、石への情熱と知識共に、自身のキャリア戦略、戦略を実行に移す勇気とコミュニケーション力も備わっていた事がわかります。
クンツ青年が若くして築いたキャリアから考えれば、博物館の学芸員としても働くことも簡単だったでしょうが、溢れ出る才気はそのような職業で満足するものではなかったようです。
そんな彼が次の挑戦に選んだのは、ジュエリーの世界でした。
ティファニー社へのアプローチ
ジュエリーの世界を選んだのには、一つの疑問と仮説があったからです。
そもそも貴石(Precious Stones)とは何か?では半貴石(Semi-Precious Stones)と何が違うのか?という疑問と、半貴石の素晴らしさは、ジュエリーを買い求める女性に受け入れられるではないかという仮説です。
1870年代当時、ジュエリーにあしらわれる宝石といえば、貴石と真珠が主流であり、他の宝石、いわゆる半貴石が用いられる事はほとんどありませんでした。
クンツ青年は、そんなジュエリー業界の風習と、鉱物の研究を続けていく過程にて、貴石以外の鉱物も美しく光り輝くことがわかっていました。
個人的には、氏の晩年におけるこの時代の回想、半貴石を描写した文章が一番好きです。少し引用長くなりますが、日本語訳も含めて記載したいと思います。
現在においては、ジュエリーに半貴石を用いるというこは珍しくもありませんが、1870年代当時はまさにコロンブスの卵。
クンツ氏は当時の自身の考えを”Revolutionary Theory”、 つまり"革新的な理論"と語っています。その可能性の大きさに興奮しており、なんとか自身の考えの正しさをの証明したいという思いを持っていたと推測します。
◆
クンツ青年のジュエリー業界へのアプローチ初手は大胆なものでした。
時代に名を残す方の凄みを感じずにはいられません。
1876年クンツ青年が若干20歳の時、当時既にアメリカ最大のジュエリー・調度品会社となっていたティファニー社の創業者チャールズ・ルイス・ティファニー氏(当時60歳)との面談にのぞみます。いきなりラスボス戦です。
もちろんこの面談のアポイントは、偶然の成り行きといった類のものではなく、あらゆるツテを手繰り寄せ実現させたクンツ氏の若さと挑戦心の結果とみるべきでしょう。
面談の目的は、石の売り込み半分、クンツ自身の売り込み半分だったことでしょう。面談に持参する勝負の半貴石に選んだのは、緑のトルマリンでした。
面談におけるクンツ氏のプレゼンの骨子は、想像ですが下記のようなものだったと推測します。
・見て下さい!この緑のトルマリンの美しさを!
・今や世界はヨーロッパではなく、アメリカの時代。
新時代のアメリカのジュエリーには、今までの古い慣習に捉われず、新しく美しい宝石を用いてはどうか。
・アメリカには芳醇で美しい宝石の鉱床がたくさんある。
・私には鉱物研究で培ったアメリカ中に張り巡らされたネットワークがある。それらを御社にお持ちできるのは、私をおいて他にはいない。
そして面談の結果は・・ティファニー氏は緑のトルマリンを買取りました。
これがティファニーが初めて仕入れたトルマリンだったそうです。
この面談から程なくして、クンツ氏はティファニー社から宝石の専門家としてオファーを受けます。
そして生涯(1932年没、享年75歳)を通じて、その役職を全うしたのでした。
それでは本日はここまで。
皆さまの宝石ライフが色鮮やかでありますように。
<Vol.2 - 新宝石普及への挑戦 - に続きます。>
閑話休題・補足追記
・緑のトルマリン
クンツ青年がティファニーとの面談に持参した勝負の宝石、グリーントルマリン。
仮に、持参した宝石がみすぼらしい物であれば、クンツ氏の半貴石をジュエリーにという考えに説得力を持たず、ティファニー氏を動かす事は叶わなかったでしょう。
このトルマリンは、アメリカのメイン州マイカ鉱山産である事がわかっています。空想の宝石・結晶博物館の記事にて同じマイカ鉱山産のトルマリンを見ることができます。
濃すぎず、透明感がある絶妙なグリーントルマリンです。
空想の宝石・結晶博物館さまへ;
いつも記事を楽しく拝見させて頂いております。この場を借りて、感謝申し上げます。
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