「幼年期の終わり」を読んで
アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」は言わずと知れたSFの名作だ。しかし私はこの作品を他人から言われるまで全く知らなかった。そもそもSFは食わず嫌いの気があり、主に純文学のジャンルを読んできたのだ。
そしてこの作品を読後、私はなんとも言えない感情を抱いた。ネタバレ必至なので、ご容赦願う。
オーバーマインドの思うがままに従来の人間は一人残らず滅んでしまったのだ。おい、オーバーマインド、そしてオーバーロード、お前ら人類になんてことをしてくれたんだ。人の命を何だと思ってやがる。私は怒りを隠せなかった。
人類が、いや正確には10歳以下の子どもは別の形に昇華したのかもしれないが、成人や爺さん婆さんはさよならだ。そんなに高齢者に冷たいのかよ!介護保険も使わぬうちに死んでしまうだなんて、保険料返せよ!おい、自治体!孫の顔も見ないで死ぬだなんて、寂しすぎる。そして小さな子ども達は親や爺さん婆さんと引き裂かれてしまうのだ。まだまだ甘えたい年だよ。おやつに作ったホットケーキ冷めちまったよ。どこいったんだよ、子ども達。
いささか感情的になりすぎたようだ。冷静になろう。
これは小説なのだ。SFなのだ。
さて、上記に書いたような感想を当初抱いたわけだが、数日が経過してその思いは段々小さくなっていき、この思いが何だか宇宙というスケールに比べれば、とてもちっぽけに思えてきた。そして私はあるワナにはまったのではないか、と考えるようになった。
ワナとは何か?私は自分がバイアスのワナに引っかかってしまったのではないかと考えていた。このバイアス、つまり認知の歪みは、私の一方的な思い込みではないかと考えていたのだ。それは、確証バイアス。自分の考えが正しいに違いないという強い思い込みだ。
人にはそれぞれ価値観がある。それは、その人の生まれた時代、環境、文化、教育、経験、宗教など様々なものから影響を受けている。そうだ。もちろんアーサー・C・クラークと私の価値観、死生観は違う。物語上の登場人物オーバーマインド、オーバーロードとも違うのだ。そうした様々にあるはずの多様な死生観を考えることができず、気付かないうちにメガネをかけていた。私は穴があったら入りたい心境になった。
バイアスというものは恐ろしいものだ。そのバイアスに気がついた上で、物語を認める。そうした姿勢が私の読書には欠けていた。残念だが、今回は私の負けだ。いやいやいやいや、ワナを仕掛けたのも自分だったのだ。