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全てのダイアナに花束を -『next to normal』感想 

望海風斗さんNチーム公演
兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール
2022年4月21日(木)初日マチネ 4月22日(金)千穐楽

注)望海風斗さんNチームの観劇メモです。
安蘭けいさんAチームは残念ながら観られませんでした。
いつかきっと再々演を心から願っております。

はじめに

感想の前に
心という現場で、患者として・その家族や友人として・支援者として・医療に携わるスタッフとして日々生きてらっしゃる方々に、あるいはひとりで抱えていらっしゃる方々に、心からの讃辞と愛を捧げます。

厚生労働省の近年の統計によると、日本国内で心の病をかかえる方は約419万人。実際には、統計上に表れない未受診の方も多いと思います。
ひとりひとりに、その隣で生きるひとに「next to normal」な世界がある。そう感じる観劇でした。

観劇、と書いたけど、わたしにとってはドキュメンタリーでした。

1、望海さんの目

ダイアナを演じた望海風斗さんがあえて言葉になさったことに大きな意味があると感じたので、ここでもあえて言葉にして書きます。
緊張します。この言葉を書くのは初めてだから、緊張します。

ダイアナがこう言います。
「ねえ、今夜セックスしましょ」
「これからお父さんとセックスしてくる」
初見でびっくりして「ひええ、そんなことわざわざ言うのか」と観てました。その言葉を発した時のダイアナの目。2階席から見ても、その目は輝いて美しかったです。

オープンな夫婦生活、というにしては「彼女のことが理解できない」というダンの言葉、翳りのある表情。「すごくよかったよ」という割には彼は全く満たされてないことが伝わってきました。このいびつさ、違和感が、ゆらゆらゆらめく陽炎のようにダイアナ自身から立ち昇ってきました。
それをもたらしているのは、望海さんの目です。

望海さんが「目を見て」とおっしゃってたので、目をよく見ました。目の前の夫を見ているようで見ていない目をしているのです。たとえば、クリニックの場面で、ドクター・ファインに性的な妄想を働かせるときのダイアナの目もいきいきと輝いて、あの目は「獲物をみつけた肉食獣の飢えた眼」と形容できるかもしれないけど、肉食獣の方がもっと穏やかで落ち着いた目をしてると思います。口元は笑っているのに目は笑ってないし、飢えて何かを探している。何も見てないのに、何かを見て、瞳の奥で炎がゆらめいている。そんな目です。

こんな目をする望海風斗さんに、こんな飢えた目に、引き寄せられました。

その後のダンとの会話もすごい。出勤時刻なのに遅れそうになってあわてるダン。笑いながら言うダイアナの「10分もかけるからよ」という言葉は、えーっと、どういう意味なんだろう……さっさと気持ちよくなりたいのにダンの準備が整うまで時間がかかりすぎるという意味でしょうか。わかんない、違ってたら教えてください。10分とは・・。わからないけどわからなくても誤りをおそれず言うと、性欲あけすけなダイアナ、10分ですら長いと感じるファスト的セックスでお互い事足りると言ってのける刹那的な欲望のぎらつき(医学的には性的逸脱とも称されるそうですが)をキャッチしました。この台詞も、望海さんが演出の方にレクチャーを受けて「なるほど」と腑に落として発した言葉なんだと思うと、ああこの舞台に至るまでダイアナの心の深淵まで降りていった壮大な旅をなさったんだと思います。

でもほんとにどうしたら言えるの?
演じた経験の全くないわたしの素朴な疑問です。

ダイアナのぎらついた台詞について語られることは、今後多分ないと思います。この台詞ひとつにしたって、望海さんが内から自然と発するために、どれだけの時間と労力と心を尽くしたんだろうと思うのです。そんな台詞がたくさんあります。さらに、台詞では表せない感情を、その大きな美しい目に浮かべて語ってくれているのです。

望海さんは全く自分とは違う人生を精一杯生きてくれます。
宝塚時代もそんな役が多かったから、していることは変わらないとおっしゃって、ことさらこのダイアナの役が大変とは決しておっしゃらない。
そうなんだろう、そうなんだろうと思うんです。そこが生まれながらに天から授かった望海さんの舞台人としての才能なんだろうと思うのです。

でも、でもやはり、その役を生きるまでは本当に大変な、ご自分との闘いがあると思うんです。観客には氷山のほんの一角しか見えないけれど、目に見えないところで緻密に作り込んで戦って舞台に立っている望海さんに、ありがとう、と思うのです。でも「ありがとう」では何か足りない。どんな言葉を使えばこの気持ちが伝わるんだろうと言葉につまって胸がぎゅうっとなるのです。


2、せつないもの

望海さんのダイアナを見ていて思ったこと。
ダイアナにとって、男性は、欲望の対象である一方で、自分を支配する恐怖の対象でもあるんだと感じました。男性は、「子ども」とか「薬」とか、ダイアナにとって「こんなの狂ってる」タスクばかり与えるのかもしれません。

ダイアナは自分の与えられたタスクをこなします。母親というタスクです。毎日毎日繰り返される日常。さわやかに歌いながら床にまでパンをしきつめるダイアナ。めまいを感じて制御がきかなくなるほどに大量にサンドイッチ作りまくりマシンになるダイアナ。
あのタガがはずれて暴走していくシーン、確かに狂おしいんですけれど、美しかった。なんで美しいと思ったのかわからない。彼女は与えられたタスクを応えよう、クリアしようと思っている、その純粋なひたむきさが美しかったのかもしれないです。ひえーって引いてるダンとナタリーの目、その距離感の方がむしろわたしにはとてもこわかった。

見てて切なくなってきたシーンがあります。
クリニックで、ダイアナは薬の副作用を伝えて「足の感覚がない」と言います。でもドクター・ファインは決して足を触ってはくれないのです。
「感覚がなくなって自分が自分ではないみたい」と言います。「それが正常な反応です」と言われます。
自分の話を聞いてるようで聞いてくれない。薬を与えられるだけです。
触れてほしい!聞いてほしい!見てほしい!
その願いが伝わってくるのです。

男性たちが与えてくれるものの中で、ダイアナが唯一嬉しいものは、セックスの快感だけなのかもしれない。目の前にいる男性(ドクター・ファイン)がぎゅっと自分を抱きしめてくれる妄想するダイアナ。なのに現実では彼は何もしてくれない。「抱いてくれない」と自分を抱きしめて歌うダイアナはとてもさみしそうです。

これは痛みと願いの物語。
心の痛みは全身を覆い尽くす。その痛みから楽になるなら快楽に浸りたい。単純作業にマシンのように没頭してしまう。ダイアナはいつも空白をかかえ、心の飢餓に苦しんでいるのです。触れて、見て、聞いてという願いが叶えられないからいつも飢えてる。
望海さんのダイアナには、弱さと強さが共存します。
ダイアナのパワフルさは、痛みがエネルギー源だからでしょう。
それはつまり、生きたいという表れだと感じました。
でもその姿は、周りから見ると、心を病んだ異常な状態、精神疾患患者として見えるのでしょう。


生の欲求を力強くたぎらせながら、それが叶えられない飢えを抱えた人間として舞台に立っていました。不安定で、ゆらいでいて、それでいてエネルギーが充満しているのです。爆発しそうな感じ。なのに心が死んでるようでもある。駆け寄って抱きしめたくなりました。思い出してもせつなくてたまりません。

3、"I Miss the Mountains"

昔は空高く飛べてた
自由に駆け回ってた女の子
もうそんな自分はどこにもいない
鎮痛剤つきのからっぽの日々は涙を乾かしてくれた
でも、わたしはあの山を失った
目のくらむような高さを失った
躁の魔法じかけの昼
鬱の真っ暗闇の夜
高いところを登ったり下ったりする動きすべてを失った
激しい風に吹かれて、雪に打たれて、雨に濡れる
あの山を失ってから
あの痛みさえも、今は恋しい

望海さんが歌っていた歌詞を覚えてないので原詩を訳しました。
翻訳アプリの訳を自分なりに意味が通じるように直した適当ニュアンスです。

2階の窓から娘のナタリーがヘンリーとキスするのを見て、自分自身の少女時代を想い出して歌う歌です。
自由に飛んでいた山を失い、大空高く山を越えて飛ぶなら当然感じる風や雪や雨という「痛み」さえ奪われてしまった籠の鳥。その比喩で、薬で感情の起伏、痛みさえも喪失させられている無の自分の悲しみを歌っていると思いました。
この歌を聴いて、わたしはダイアナはまともだと感じました。彼女は狂ってなんかいないと確信しました。だって、痛みあってこその人間。その痛みを大切に覚えているんだから。彼女は、ただただ、何かを求めているだけなんだと思いました。

望海さんの歌が終わった後に、観客のみなさんが一斉に拍手をなさるのにびっくりして「そういえばお芝居だ」と気づくほど没入してたんです。
お芝居というよりドキュメンタリーを見ている感覚でした…


4、ドキュメンタリーだった

ここから書けなくなって、1か月間離れてました。
自分の話をしないと考えが進まないので、自分の話をします。
これを書いていいのかとものすごく悩んでいましたが、宇宙の片隅でこっそり書いてるんだと思ったらちょっと気が楽になりました。ここに書くことで自由になれますように。

高校生の時、お互いに好きなはずなのに、お互いに見つめる世界が違う人との関係性に深く悩む日々をすごしていました。ここではその詳細を書く必要はないので省きますね。

わたしは家を出て、その人とも離れて、都内の大学に入学しました。
入学最初の健康診断の会場でアンケート用紙が配られて、その場で書いて提出するよう求められました。
□やる気が起きない □孤独を感じる □生きていても仕方がないと思うときがある □死にたいと思ったことがある □自殺の方法を具体的に考えたことがある
などのチェック項目がありました。他にもあったと思いますが忘れました。項目に全部チェックを入れて提出しました。「学生の意識調査アンケート」と思ったので、そりゃ生きてたらこう感じることあるでしょ、と思って、最近の学生のなんたるかを大人たちに知らしめてやろうと思って回答したんです。
すると数日後、大学の保健センターから、わたしの住む学生寮に電話がかかってきて、〇月〇日に来て、診察を受けるように言われました。行きました。へえ、あのアンケートをみてくれたんだ、なにかうれしいことがあるかもしれないと、その時のわたしはそう思ったんです。

ドアをノックして診察室に入りました。
白衣を着たお医者さんがわたしのアンケート用紙を見ていました。
丸い椅子に座りました。
お医者さんはアンケートから目を離さず
「薬を飲みますか」と言いました。
「薬を飲むんですか」とわたしが訊くと
「異常な状態なので」といわれました。

第一幕のおわり、新しい治療法を提示されたダイアナが
「わたしのどこがおかしいの」と叫びながら歌いますよね。
望海さんが仁王立ちで激昂して歌う姿、
それはまさにあの瞬間の私そのものでした。
ふつうじゃないんだ、異常と言われてショックで、でもダイアナみたいにパワーもなくて、ただただ椅子の上でぼうぜんとしてました。

死に至る病、それは絶望のことです。
わたしが絶望した原因は人を深く愛したからです。
けれど絶望も愛もわたしの構成要素です。
絶望も愛も取り除いたらわたしがわたしでなくなってしまいます。
絶望もふくめて全てがわたしなのです。

絶望、イコール、不幸、ではないのです。
絶望を否定されることはわたしを否定されることだと感じました。
だから、わたしを消さないで、わたしを殺さないでと言いたかった。

あの場面のダイアナはわたしそのものでした。
お芝居じゃなくて、自分をみつめるドキュメンタリーでした。

いらないです、そんなのいらないです、と繰り返して、保健センターを出たきり、二度と行きませんでした。その後、働くようになってから臨床心理に関心を持ち、参加した講座で「自分の心をひらく」というセラピーを受けました。
あのドクター・マッデンがダイアナに施した治療が、そんな感じでした。
体験程度でした。なのに、自分が思っていた以上に心の深淵をのぞきこんでしまい、悲嘆が一気に押し寄せましたのです。
「思い出よりもミステリアス」とゲイブが歌います。
つらい体験はまさしく「恐怖」です。
自分の心の蓋をあけることは恐怖の扉を開けることなのです。
心の蓋は簡単に開けてはいけない、開けた後は本当に気を付けなければなりません。心の蓋を開けられたまま、元に戻されないと悲しみと苦しみが常に放出されてる状態になるのです。身体におきかえると、傷口を開いて、そのあと縫合せずに放置するようなものだと言われます。

ダイアナが悲しみと苦しみに覆われてしまう姿を、既視感をもってみつめていました。誰だってきっとそうなります。わたしもそうです。
ゲイブが現れたように、自分を呼ぶ声が聞こえて、いざなう手に導かれていたら、きっとその選択をする。まるで水が高い所から低いところに流れるような自然の成り行きを見るようにただただ見つめていました。

「死は救いなのよ」という望海さん退団公演『fff』で真彩希帆さんが鋭い声で叫ぶ言葉も思い出しました。あらがうには強い意志の力が要ります。
ダイアナにあらがう力はありません。
だって愛するゲイブが呼んでいるのだから。

宝塚の退団公演、退団後初ミュージカル『INTO THE WOODS』、さらに『next to normal』。1年のうちにこんなにも死をみつめる作品に続けて出演して、いずれも濃厚に生と死を「生き抜く」望海さん。
わたしは舞台上でひとが死ぬ場面を見るとつらくなったり、大仰に死なれると絵空事としてしらけて見てられなかったり、死というカタルシスを都合よく利用して演出効果を高めていると感じて嫌気がさすこともあります。

けれど望海さんの「死」は違う。見つめていられるんです。なぜだろう。この人間が死ぬことも魂の求めるままに進んでいる結末なんだと、自然に思えるお芝居をしてくれるんです。ゲイブの手をとってしまうダイアナの姿もまた、つらいとは思わなかったんです。絶望したわたしが選んだかもしれないもう一方の道をダイアナが進んでいくのを見送る思いでした。

5、痛みは消せるのか

ゲイブのことはうまく書けません。。
愛する存在との突然の別れの悲しみは、四か月で癒えるものなんかじゃない。喪失の痛みをケアする間もなくナタリーという新たな存在に直面することになったダイアナの戸惑いと苦しみが伝わってきて、そのときそばにいてあげられたら、と抱きしめたくなりました。しかもダイアナとダンは当事者なのに、見ようとするものが違っていて、分かち合えないのはほんとうにつらいです。

一命をとりとめたダイアナ。ドクター・マッデンの新しい治療方針に激昂したのに、結局ダイアナは受け入れます。それはダンの願いと分かったからです。自分が彼を苦しめていると知って、このままではいけないと思ったから、受け入れたのだと思いました。そう、いつもダイアナはダンが与えるタスクを受け入れるんです。ダンはダイアナに振り回されているようにみえて、ダイアナを支配しています。それがみえて苦しくなります。

運ばれていくダイアナ。その目もしっかりと見ました。
あれは絶望でも怒りでもなくて、あなたの願いを受け入れるという受容のまなざしでした。それだけダンを愛しているんだと思いました。

治療によって家族の記憶を消去されたダイアナ。ブルーの衣装に身を包んだダイアナは爽やかに美しいです。落ち着いてるはずなのに、ものすごく欠落して見える。
この演劇効果がすごいと思いました。ダイアナが痛みに苦しんでいるを抱えている時はエネルギーと活力がみなぎって、痛みが消えていると気の抜けたサイダーのように欠けて感じる。ひとはそういうものなんだというメッセージにも感じました。

ナタリーもダンも戸惑っているけど、客席はもっと戸惑ってる。
あのぞっとした空気を覚えておきたいと思いました。
なぜかというと、それだけダイアナの苦しみと痛みを愛おしく思うようになっていた証だからです。つまり、あの短い時間にダイアナの心に触れて、彼女を愛おしく思うようになっているのです。それは望海さんのダイアナが心に息づいた瞬間、今もダイアナはわたしの心の中に息づいているのです。

6、愛おしいもの

やがて「パンドラの箱」のオルゴールを開けて、苦しみと痛みにつながる心の蓋を開けようとするダイアナ。それを止めようと激昂するダン。
渡辺大輔さんが唯一力づくでダイアナを支配しようとする場面です。
でもものすごく切なくて、彼の痛みがあらわになるシーンです。
渡辺さんは望海さんと、きめこまやかさと繊細さが合わさった優しい空気を創り出してらして、ダイアナとダンが生きてきた歴史に確かな説得力を与えてくれていました。この物語は、ダイアナの物語であると共に、ダンの物語でもあるんだと伝えてくれる表情に深く胸打たれました。

叫ぶダン。現れるゲイブ。ふたりの言い争い。
その激しい応酬の果てに、ダイアナはナタリーに助けを求めます。
やっぱりダイアナにとって男性とは恐怖だということがここで顕在化したんだとわたしは感じました。男性は、「子ども」とか「薬」とか、ダイアナにとって「こんなの狂ってる」タスクばかり与える。話を聞いてくれずに、支配しようとする男性への恐怖、抑圧と蹂躙から逃げ出したんだと感じました。ほんとはずっと逃げたかったのかもしれない。

なぜナタリーなのか。
親と子どもというのではなく、女性どうしのシスターフッドのような関係性があの瞬間のダイアナとナタリーの間に生まれた気がします。しかも、女性なら誰でもいいわけでなく、全てを共有しているナタリーでなければならなかったのだと思います。

next to normal 
それでじゅうぶんよ

ずっと抱きしめられたいと思っていたダイアナ
ずっと抱きしめられたいと思っていたナタリー
お互いがお互いを抱きしめるその瞬間に癒える、なんて生易しい傷ではない。ふたりともこれからも癒えない傷を抱えて生きて行かなければいけないのです。傷をいやすという行為は階段を昇り降りして進展していくようなものではなく痛みと回復を永遠にループしていくものです。けれど、それでもあの瞬間抱きしめ合えたことは救いだと思いました。

屋比久知奈さんのナタリー、彼女の尖った感覚と優しさがとても好きでした。ナタリーは、ダイアナのように狂気に陥ると思い込んでいます。でも母親とは違う生き方ができるとわたしは信じています。大久保祥太郎さんのヘンリーは彼女にタスクを押し付けるひとではないからです。

ダンと同様に、ドクター・マッデンは恐怖の種を取り除こうとします。それが穏やかで幸せな生活を手に入れる方法だと説得します。藤田玲さんの巧みなお芝居には、お医者さんとしてのプライドと自負と救いたいという思いと、同時にコントロールしたいという支配欲も見えて、救世主であり看守でもある二面性を感じました。でもね、熱意は感じる。ダイアナと向きあおうとしてくれる。完璧じゃない、でも誠実なお医者さんと思います。共に悩んでくれる親身さを感じる。それがなによりも大切だと思うんです。

でも、方法は、ダイアナにとっては違うんですよね。ダンを愛したことと、ゲイブのこと、ナタリーが生まれたこと、すべてが苦しみ、すべてが愛おしいんだと感じます。愛したかったのに愛せなかった記憶。この行き場のない愛情が自分を未来永劫苦しめるとしても、ひとつも失わず抱えて生きていきたいと生きる方法を探し求めるダイアナ。何か方法があるはずよ!と飛び出したダイアナの姿もまた、あの時のわたしそのものです。わたしも探しているから。

「君のために」とダンは言う。
でもそれは違う。とダイアナは気付いたのでしょう。
「愛されている、愛している、だから出ていくの」

愛し愛されているからこそ物理的に離れなくてはいけない、そうしないとお互いを壊してしまう決断がわかると感じました。同じものをみているのに、全く違うものをみているひとと生きていくのは難しいことです。愛すれば愛するほどわかってほしくて、互いを傷つけてしまうものなのかもしれません。わたしもそうして高校生の時に愛したひとに別れを告げて、今も離れて生きています。どこかで元気でいてくれていますように。

7、光

この物語には正解もないし終わりもない。でもラストにそれぞれの登場人物たちが「光」を歌ってくれて、歌と言葉の力で光が温もりをもって心に伝わって、わたしの人生にもきっと光が見えるんだと感じました。

繰り返しますが、虚構と思えなくて、歌が終わった後にみなさんの拍手に驚いて「そういえばお芝居」と気づくほどでした。お芝居という感覚がなくて、ドキュメンタリーを見てる感覚でした。悲しいとかつらいという気持ちより、自分の物語を生き直している感覚があって、魂の軌跡をきちんと形に残してもらえたことがありがたいという気持ちになったのです。

絶望を否定せず、肯定してくれたから、わたしも肯定された気持ちになりました。絶望の反対語としての希望ではなく、絶望も内包した希望を持ち帰ることができました。

望海さんのその瞳の深い淵の底に常に輝いていたのは、ひとへの愛情だと感じました。ダイアナを不幸なひとではなく、絶望していても、ひとを受け入れて愛して生きたいと願っているひととして生きてくれて、とてもとても嬉しかったです。
たとえ棘に傷つけられると知っていても、薔薇を両腕に抱きしめるような、その薔薇の花びらも1枚残らず大切に守るような、繊細で勇敢で気高く美しいダイアナとして立ってくれていました。美しかった。その姿に励まされました。
望海さんのダイアナが大好きです。
望海さんのダイアナに出会えてよかったです。
望海風斗さんに心から感謝してます。

望海さんはじめ、甲斐翔真さん、渡辺大輔さん、屋比久知奈さん、大久保祥太郎さん、藤田玲さん、スタッフのみなさまも本当にありがとうございました。
いつの日かまた会いたいと願っています。


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