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はじめてのたちんぼ
その日、私は始発まで一時間弱という微妙な時間にバイトを終えた。場所は新宿である。バイト先で始発待ちもできたのだが、歌舞伎町の外れにあるラーメン屋へ行こうと思い立った。当時はスマホなんて無かったから、時間を潰す手段は限られていたのだ。
その頃の歌舞伎町は深夜に一人でウロウロするにはぞっとしない場所だったので、少し遠回りして回り込むように歩いた。急いだところでラーメン屋が閉まるわけでも、始発が早く動くわけでもない。
暇潰しも兼ねてあまり知らない道を歩いていくと、ふいに薄暗い空間がぽっかりと目の前に現れた。そこはギラギラと明るい歌舞伎町の中にある空白地帯のようで、空が見え、田舎だったら頼りになりそうな電灯が数本ある。砂場、滑り台、ブランコというお決まりの遊具があり、公衆便所があり、木陰にはホームレスの手作りハウスが並んでいる。
歌舞伎町が近いにもかかわらず、人影はなく静かだ。やんちゃ小僧がたむろしてもいないし、酔っ払いが騒いでもいない。
その公園を避ける道ももちろんあったが、私はど真ん中を突っ切って歩いた。
別に早くラーメン屋に行きたいわけではない。
ただ、そこが突然現れた異界のようで、足を踏み入れずにはおれなかったという感じだ。
そうして公園の中を歩いていると、どこからか婆さんが現れて私を呼び止めた。
「お兄さん、お兄さん」
「はい?」と驚いて立ち止まる。
「一回、千円でいいよ」
「……はい?」
私は改めてその婆さんをよく見た。もじゃもじゃの髪の毛は白髪まじりで、痩せてはいるがヨボヨボという感じではない。おそらく50代だろう。服装などは完全にホームレスのそれだ。電灯を背負って影になっていてもそれくらいは分かる。
それから一回千円の意味をしばし考え、「ああ」と合点して答える。
「いや、いいです。ごめんなさい」
しかし婆さんは諦めなかった。
「分かったよ、お兄さんまだ若いし、こんなおばさんじゃ嫌だもんね。五百円で良いから。朝まで居て良いから」
「いや、そういう事じゃなくて……だいたい、どこでやるんです」
婆さんは木陰にある青いビニールに覆われた段ボールハウスを指さした。
「あそこ。大丈夫、毛布敷いてあるから。ちゃんとしてるよ。ちゃんと身体洗ってるし、石鹸もあるから。お願いだよ」
私が困っていると、「嫌ならやらなくても良いから。朝まで横になったらどう?」などと言う。
婆さんの必死さが少し怖かった。と同時に、不憫にも思った。財布から五百円を渡すと、婆さんはそれを握りしめて「ありがとう。こっち」と手作りハウスへ行こうとしたが私は断った。
「それはいいです。それじゃ、僕は行くんで」
「えっ、それは駄目よ。悪いよ。お金だけ貰って……」
婆さんはそう言ったが、追いかけては来なかった。
そんな事があって、私はその公園を避けるようになったが一度だけ昼間に行ってみたことがある。子供の姿は無く、数人のホームレスが水場にいる、典型的なホームレス村だった。その中にあの婆さんもいたかもしれないが、探してはいない。
それから何年か経ち、その公園は歌舞伎町クリーン計画によってすっかりキレイになった。フェンスで囲まれ、そこにいたホームレスたちも彼らの家も今や影も形もない。
人生の中のほんの一瞬をすれ違ったあの婆さんはどんな人生を歩んであそこにいたのか。あの後どうなったのか――そんな事を、ふと思う時がある。
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![権田 浩](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/13159605/profile_21a794acaeeb6ece5451775b21e72ef9.jpg?width=600&crop=1:1,smart)