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「失われた可能性」第五話

※トップ画像はAIで生成しました。

【5.熊狩り】

 午前中の仕事を早めに切り上げ、村の男たちは武装して集まった。北方の男は木こりだろうが農夫だろうが必要とあらば戦士になる。硬い革鎧ハードレザーアーマー鎖帷子の胴鎧チェインシャツなどの防具を身に着け、手には木製の丸盾ラウンドシールド幅広の剣ブロードソード、斧、槍、弓など。組み合わせは人それぞれで統一感はない。

 専業戦士である衛士はさすがに立派で、ひざ下まである袖付きの鎖帷子チェインメイルに板金の腕当てと膝当て、この地方特有のアードヘルム――猪を模した飾り兜で、毛皮が肩まで覆っている――を被り、剣、盾、槍で武装していた。

 ベントはアンサーラを見つけると肩を寄せ、小声でささやく。「どうしてあんたがいる? 熊は魔獣じゃないだろ」

 アンサーラも小声で返した。「アーダさんから、彼を守るよう依頼されました。報酬にハーブを頂きます」

 ベントは視線を追って狩人の後頭部をちらりと見やり、訳知り顔でアンサーラと目を合わせると、たちの悪い冗談を聞いたかのように頭を振った。「しかも、雑草が報酬だと?」それから集まった村人たちの前に歩み出る。

「みんな、聞いてくれ。これから三人前後で班を作って森を捜索する。もし何か見つけても自分たちだけでやろうとするな。笛で知らせろ。熊が逃げても追いかけるなよ。逆に誘い出されるぞ。全員で追い込み、全員で仕留める。わかったな」

 おう、と応えて男たちは門を抜け、森へ向かった。自然と気心の知れた者同士で班が出来上っていく。アンサーラとベントはエスキルを追い、そこへマルクも加わった。各班は間隔を空けて横並びに立ち、一斉に森へ入る。

 午前中の爽やかな木漏れ日の中、四人はエスキルを先頭にして歩いた。周囲を探りながら一人で進んでしまう狩人を追い、ベント、アンサーラ、マルクの順で続く。マルクは一昨日よりもさらにひどい様子で、青白い顔に脂汗を浮かべ、はっきりとくま・・のある落ちくぼんだ目でエスキルを凝視していた。背を丸め、両手で槍をぎゅっと掴んでいる。ベントも気にして時々肩越しに振り返っては、アンサーラと視線でやり取りした。

 村人が気軽に立ち入れる領域を離れるにつれ、周囲は徐々に暗くなっていく。

「あの、アンサーラさん……」小声で呼び止められて振り返ると、マルクはふわふわした栗色の前髪の下からちらりちらりとエスキルの背中に目をやって、何かを訴えようとしている。「あの、えと、その……」

 立ち止まった二人にベントが気付いた。「どうした」

「マルクさんの具合が悪いようで、お二人は先に進んでください」

 ベントは怪訝な表情をしたが、さっさと進んでしまうエスキルを放っておくわけにも行かず、狩人を追った。しばらくその場に立ち尽くし、先行した二人が声の届かない距離まで離れてやっとマルクは口を開いた。

「すみません、アンサーラさん、その……」

「彼には聞かれたくないお話のようですね」

「はい。ごめんなさい、ぼく……酒場で嘘を吐きました。本当はヨエルがあそこにいると知っていました。そしてエスキルと会っていたことも……ずっと、怖くて、誰にも言えなかった。でもあなたが来てくれた。人狼はエスキルです! 早くあいつを殺してください!」

 先程までの怯えた姿はどこへやら、マルクは目を見開き、掴みかかるような勢いで身を乗り出した。まるで振り子のように揺れ動く人間の感情は時に危険でもあるとアンサーラは知っている。目の前にいるのはただの無力な青年ではないかもしれない。

「落ち着いて。どういうことか説明してください」

「あの日、ヨエルはエスキルをあの場所に呼び出していました。アーダの……ことで」今度は急に、しゅん、と意気消沈する。

「アーダさんのこと?」

「はい……ヨエルは子供の頃からアーダが好きでした。彼は誰にでも優しくて、そんな素振りは見せなかったから、知っているのはぼくだけだと思います。彼は、ぼくにだけは何でも話してくれましたから。でもアーダはエスキルと付き合っていて、それは村人の誰もが知っていましたし、結婚するだろうと思われていました。それでもヨエルは密かに彼女を想い続けていた。去年の秋頃から二人は急に疎遠になったけど、アーダの気持ちは変わらず、エスキルが彼女を避けているだけだった……ヨエルも我慢の限界だったんでしょう。話をつけると言って、あの場所に、あいつを呼び出したんです。そのまま日暮れ近くなっても彼は戻らず、仲間数人と探しに行くことになって、ぼくは真っ先にあの場所へ行きました。途中で戻って来るエスキルを見かけたけど、何となく気まずくて、隠れてやり過ごしました。それから……それから茂みを抜けたら……そこで、ヨエルが……あんな……ううっ」

 マルクは口に手をやり、吐き気をこらえながらアンサーラを見上げた。真っ青な顔。歪んだ眉の下で目だけが赤く充血している。「お願いします、アンサーラさん……仇を、ヨエルの仇を討ってください……」

「マルクさん……ええ、確かに彼は、狩人なら決して見逃すはずのない痕跡を何も無かったと言いました。そしてあなたのお話のとおりなら、ヨエルさんが殺された時、現場に居合わせたことになる。彼とは直接話す必要があるでしょう。しかし、わたくしが引き受けたのは人狼問題の解決であって、殺しではない。人狼を殺すつもりはありません。なぜなら……」

 その時、プオーッと角笛が響き渡った。アンサーラはさっと振り返り、エスキルとベントが向かった方角を見やる。「あなたはここから動かないで」

「待って、今のはどういう意味です――」

 マルクの声はあっというまに背後へ消えた。地面を蹴り、森の中を一陣の風のように駆け抜け、水の溜まった窪地を飛び越える。鈍く光るベントの鎖帷子が見えた。角笛を吹いたのは彼だ。木に寄りかかり、角笛を持った手でだらりと垂らした左腕を押さえている。

 もう一度角笛を吹こうとしたベントは、突然アンサーラが隣に現れたのでぎょっと目を剥いた。艶やかな黒髪だけが勢い余って前方に流れる。それを背後に払って、ベントの上腕に手を添えた。「診させてください」

 当たり所が悪かったらしい。鎖帷子はバラバラに引き裂かれ、ひしゃげた金属の輪がその下の裂傷に食い込んでしまっている。傷は深いが骨までは達していない。板金の腕当てのおかげで肘関節は無事だ。止血し、適切に処置して化膿を防げば問題ない。

「ちくしょう!」痛みに呻きながらベントが毒づいた。「エスキル! あの野郎、おれの話をちっとも聞いていなかった。いきなり矢をぶっ放しやがって!」

 アンサーラは適当な大きさの石を拾って布で巻き、ベントの腋の下に押し込んだ。「強く脇を絞めてください。もっと、もっと強く。それから傷口を押さえて……そうです。痛むでしょうが、そのままで。エスキルさんはわたくしが」

「くそっ、頼む」

 熊とそれを追ったエスキルの痕跡は一目瞭然だった。足跡だけでなく、折れた細枝と、かき分けられた下草が道のように続き、ますます暗い森の奥へと続いている。辿るアンサーラの瞳も金色に変わっていき、その先でついに、彼女は狩るべき魔獣を見つけた。

 銀色にも見える灰色の珍しい体毛。馬ほどの大きさの巨大な狼――ダイアウルフが熊の太い首に牙を埋めている。そして、ぐったりと横たわる熊からわずか数歩の距離で立ち尽くすエスキルの後ろ姿。

 すっ、とアンサーラの心は冷えて感情の波は消えた。瞳は金属質な光沢を放ち、黒髪が駆ける彼女の軌跡となって木々の合間をすり抜ける。目にも留まらぬ速さで接近し、いつの間にか抜いた二本の剣を振り上げて、彼女はダイアウルフに飛び掛かった。左右上段から交差するように剣を振り下ろす。熊の頭部ごと、ダイアウルフの長い口をバラバラにするはずの一撃はしかし、かわされた。エスキルを避けるための余分な動きが、その機を魔獣に与えてしまっていた。

 とーん、と飛び退いたダイアウルフは崖の上に着地した。追おうとしたアンサーラのマントが、ぐん、と後ろに引かれる。はっとして振り向くと、エスキルのごつい拳がマントの端を握りしめていた。振りほどくのは容易だが、彼の目が――忘れたはずの感情を蘇らせるような熱い若者の瞳が――そうさせなかった。

 二人はしばし見つめ合い、アンサーラは小さくため息を吐いて全身の緊張を解いた。ダイアウルフが去った崖上に目をやりながら、剣を鞘に納める。

 そしてその様子を、マルクは遠く木の影から見ていた。

〈第六話へつづく〉


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