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「失われた可能性」第七話

※トップ画像はAIで生成しました。

【7.満月の夜】

 アーダからもらったフェンネルとヘンルーダを挟み込んだ荷物に、村長の蒸留酒ウスケポをぶら下げて、アンサーラは森の中で足りない材料を探した。野生のニンニクは見つからなかったが、酒場でもらったものが使える。トリカブトは簡単に見つかり、哺乳類の新鮮な心臓と胆汁も放置された熊の死体から得られた。

 それから、森の中にぽっかり空いた草地を見つけて中心に平らな石を置き、夜になるまで準備をする。素材をすり潰して混ぜたり、不要な部位を切除して蒸留酒に入れたり、霊薬エリクサの構築式を頭の中で検証したり。

 そうこうしているうちにすっかり日は沈んで、山の上に満月が姿を現した。月光が草地を満たすのを待って、アンサーラは立ち上がる。

 両手のひらを顔の前で重ね、ゆっくりと呪文の詠唱を始めた。知らぬ者が聞けばそれは歌声と思っただろう。円を描くように両手を左右に開き、繊細な指先で印を結び変えながら腕を振り、左右のつま先を交互に軸として岩の周囲を巡る。月光の下で歌い踊るエルフの乙女にしか見えなくとも、表情は真剣そのものだ。

 並べられた素材から元素マーナが光の粒子となって舞い上がり、詠唱と動きに合わせて地上の星雲と化す。元素マーナは結合し、分離し、交差しつつ色を変え、アンサーラに導かれて空中に複雑な紋様を描き出した。額から汗がついと頬を伝い、眉間に皺が寄る。

 普段アンサーラが魔法のために作る触媒と違って、霊薬エリクサは誰が使っても同じ効果を発揮する。魔法を織り込み、力を内包させねばならないが、熟練した魔法使いとはいえないアンサーラは必要以上に消耗した。心の深遠から、さらなる力を引き出して、草地の中心で球状に輝く立体紋様へと注ぎ込む。球体は黄金に輝きながら回転し、みるみる収縮して、ついには光の粒となって落ちた。石の上に置かれた小瓶の中に。

 くたくたになりながらもアンサーラは小瓶を拾い上げ、まだほんのり光を放つ丸薬を確認してその場に座り込んだ。月光を浴び、夜気で肺を満たして、しばし休息する。

 昼のぽかぽかした陽光も、夜のきりりとした月光も、彼女にとっては等しく心地よい。それはデイエルフの母とナイトエルフの父から受け継いだ性質のおかげで、もうその事に葛藤はない。かつて父の血を疎んだこともあったが、どちらかを消し去ったとて、望む自分になれるわけではないのだ。理解し、受け入れて、自分を知ること。長い年月をかけて彼女はそうしてきた。

 だから本当は、これを使って欲しくはない――アンサーラは手の中の霊薬エリクサを見た。小瓶の中でころころ転がる黄金色の丸薬。望んで得た〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力ではなかったとしても、両親から受け継いだ、彼自身の性質に他ならない。

 しかし人間に与えられた時は短く、いつまでも葛藤を抱えて無駄にはできない。これを飲んでダイアウルフとの絆を断ち切り、アーダの愛情を享受する人生があってもいい。あるいは……。

 愛情。母ならきっと、エスキルとダイアウルフを行かせただろう。殺人の道具として生み出された魔獣たちに愛情を伝えようと自らを犠牲にした彼女なら。その愛が、〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力のように世代を超えて、まだどこかに受け継がれている可能性は本当に無いのだろうか。あのダイアウルフは人の血肉を求めたのではなく、愛する者を守ろうとしてヨエルを殺害した――その可能性は。

 アンサーラにとって森で一夜を過ごすのも、村で過ごすのも、違いはなかったが彼女は立ち上がって荷物を片付け、村への帰途についた。木々の合間からぽつぽつと炎の朱色が見えてくる。

 もう門は閉まっているだろう、と思いきや、開いていて、無事なほうの手で松明を掲げるベントの姿があった。傍らには不安げな様子のアーダ。異変を感じてアンサーラは森を駆け下りた。小道に姿を現した彼女を見つけて、アーダが駆けてくる。

「アンサーラさん!」

 アンサーラもまた小走りに、勢い余った彼女を受け止めて支えた。「どうしました」

「マルクが、村の皆を先導して……エスキルに酷いことを……彼を、彼を助けて!」

 アンサーラは用意した霊薬エリクサをアーダに握らせた。「これを持ってエスキルさんの家で待っていてください。もし彼が望むなら、それを渡してあげて。外には出ないように。それからベントさん」後ろに立つ衛士に呼びかける。「まだ家に残っている人たちにも、決して外に出ないよう伝えて下さい。あなたも自宅にいたほうがいい。何も見なければ、嘘を吐く必要もありません。明日の朝、どのような結果になっていようとも、あなたはあなたの職務を全うしてください」

「わかった……あんたを信じるぞ、アンサーラ」

 アンサーラはうなずいて、門を駆け抜けた。道を辿ってなどいられない。一番高い場所から跳躍し、月下に舞う妖精がごとく、家々を踏み台にして一気に村を下る。川辺では、丸太用の柱に狼頭の人狼が吊るされ、松明を手にした村人たちがそれを取り囲んでいた。一人だけ前に出たマルクが、熱に浮かされたように人狼の罪をわめいている。

「……そして、ヨエルを殺した! この怪物は皆さんの愛したヨエルを惨たらしく殺し、バラバラに引き裂いて喰らい、血をすすった! さあ、次はダイアウルフです。その首をこいつの目の前に転がしてやりましょう。死ぬまで、仲間の首が腐っていくのを見せつけてやるんです。こいつらはそれだけのことを――」

 最後に大きく跳躍して、アンサーラは村人を飛び越え、人狼とマルクの間に降り立った。突然現れた彼女に、興奮したマルクでさえ一時言葉を失う。

 吊るされたエスキルは酷い有様だった。狼化した頭部の長い口からはねっとりと赤黒い血が垂れ、全身の皮膚は鞭打ちによってズタズタに引き裂かれている。腫れあがった右脚は折れているかもしれない。切れた瞼の血が片目を塞ぎ、首に縄をかけて引きずられたか、皮膚が赤く擦り剥けて血の首飾りになっている。微かな呼吸音と逞しい胸の奥で弱々しく脈打つ鼓動。まだ死んではいない。

「ア、アンサーラさん? 今までどこに……いや、見て下さい、ぼくらで人狼を捕まえた! 自分たちの村は自分たちの手で守らないといけない……あの時、あなたはそう言いたかったんですよね!」

 アンサーラが拳を握っていることに気付いた者はいただろうか。沸き上がった怒りを、彼女はしかし、すぐに飲み込んで村人を前に両腕を広げた。

「皆さん、こんなことをする必要はありません。ご存知のとおり、人狼は狼の霊に憑依されているだけです。わたくしはそれを祓い、人間に戻すことができます。そもそも彼はヨエルさんを殺してはいない。ヨエルさんを襲ったのはダイアウルフです」

「どちらがやったかは問題じゃない!」マルクが叫ぶ。「ぼくははっきり見た。ヨエルが殺されたあの日、エスキルが現場から立ち去るのを見た。戻って来ないヨエルを探しに行って、彼の……あの美しかった彼の……無残な……。あ、あ、あなただって見たでしょう、アンサーラさん! ダイアウルフは確かにいました。でもエスキルは、あなたが追おうとしたのを邪魔した!」

「ダイアウルフには狼を操る能力があります。エスキルさんは操られていたのです。それに、ヨエルさんのほうから彼を呼び出したと教えてくれたのはあなたではありませんか、マルクさん。エスキルさんに殺意があったのなら逆では?」

「ふ、二人はアーダを巡って争った……それでエスキルは……ヨエルが邪魔になって、ダ、ダイアウルフに殺させたんだ!」

「エスキルさんが去年の秋以降、アーダさんを避けていたのは皆さんもご存知のはずです。それほどの執着があるように見えましたか?」

「ちがうッ、違う違う違ぁう! ぼくは仇をとるんだ! 彼が死んだのはお前のせいなんだぁぁぁ!」

 マルクは腰のナイフを抜いて身体ごと、エスキルに突きかかった。しかしアンサーラに手首を掴まれただけで阻止される。押せども引けども、アンサーラの細腕はびくともしない。

「くそっ、くそっくそぉっ! あぁぁぁっ!」

 振り絞るように慟哭の叫びを上げ、ついに諦めたか、マルクはがっくりと両膝をついた。指から滑り落ちたナイフが石に当たって乾いた音を立てる。

「あなたはなぜ……なぜ、そこまで……」

「……愛する者を奪われた。そのむごたらしい死にざまをこの目で見た。その怒りがわかりませんか、アンサーラさん。エルフには心が無いのですか。何もかも焼き尽くしてしまいたくなるような、身体の内側から焼かれるような怒りを感じたことはないのですか。もう二度と、夢見ることさえ叶わない。この無念がわかりませんか」

「でもあなたは彼の、アーダさんへの気持ちを知っていたのに……」

「ええ、そうです。ヨエルは何だって打ち明けてくれた。ぼくは彼の親友で、特別な存在だから……だからもし、もしも、ぼくのこの気持ちを打ち明けたら、万が一にも、可能性があるんじゃないかって……思ってしまうじゃないですか……何度も何度も繰り返し夢を見て、苦しんだ。でも、それさえ幸せだったように感じます。その可能性を永遠に失った、今となっては……」

 マルクの内なる炎は儚く燃え尽き、涙へと変わった。アンサーラは彼を解放し、跪いて揺れる背中を横目に、村人たちへ向けて声を張る。

「皆さん、よく聞いて下さい。わたくしはこれから解呪の魔法を使います。彼の中から追い出された狼の霊は夜明けまで村中を飛び回り、新たな宿主を探すでしょう。しかし霊は魔除けのある家の中には入れない。皆さんの家の魔除けは確認済みですからご安心ください。家に戻り、窓と扉をしっかりと閉め、何があっても夜明けまで外に出ないでください。覗き見てもいけません」

 村人たちは困惑していた。突如、罪の意識に駆られた者、いまだ人狼を忌まわしいもののように睨む者、そして同じような目でマルクを見下す者、エルフを信じてよいのか迷う者……しかし結局は、互いに目を合わせ、うなずくと、蜘蛛の子を散らすように家へ戻っていった。アンサーラは取り残されたマルクの肩を掴んで立ち上がらせる。

「マルクさん、さあ、あなたも」

 抜け殻のようにとぼとぼと去っていく彼を見送ってから、アンサーラはナイフを拾い上げ、片手でエスキルの体躯を支えながら縄を切った。ゆっくりと地面に横たえ、荷物から魔法の触媒を取り出して栓を抜き、人狼の長い口の端から注ぎ込む。

「飲んで。すぐ楽になります」

 それから軟膏を傷口に塗り、呪文を唱えた。触媒を通じて魔法が効果を発揮し、うっ、と呻いてエスキルは薄目を開ける。

「うそを……吐いたのくぁ」狼の口から発せられる人間の言葉は不明瞭だった。

「はい。時には迷信も役に立ちます。人間の姿に戻れそうですか?」

「ヘンシンするつもりは無くぁった」

「本能的な反応でしょう。〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力の本質は、自らの肉体を造りかえること。そのおかげであなたの命は助かったのです……さあ、これで大丈夫」

 アンサーラは青白い顔で息を継ぎ、額の汗をぬぐった。さすがの彼女も魔法を立て続けに使ったせいで疲労していた。

「〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力を阻害する霊薬エリクサはアーダさんに預けました。彼女はあなたの家で待っています。もしくは……あなたの言った可能性を信じるなら……行ってもいい。わたくしは追いません」

 エスキルはうなずくと、傷の具合を確かめるように、ゆっくり立ち上がった。身体を傾け、片足を引きずってヨロヨロと歩いていく。満身創痍だが、〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力があれば、あるいは寄り添ってくれる人がいるなら、快復するだろう。

 エスキルが語った可能性は、魔獣を殺す以外にも方法はあるのではないか、という数世紀にわたる疑問を再び思い起こさせた。もし父が生きていたら、答えをくれたかもしれない。しかしその可能性は自らの手で絶ってしまった。永遠に――。

 アンサーラは震えるほど強く拳を握りしめ、傷ついた狩人の背中を見送った。

〈第八話へつづく〉


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