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「失われた可能性」第九話

※トップ画像はAIで生成しました。

【9.いとしきもの】

 ひょこひょこと片足を持ち上げながら森をいくエスキルを、ダイアウルフのほうが先に見つけた。闇の中に赤い瞳が浮かび、続いてぬっと鼻先が現れる。灰色の毛皮を枝葉の隙間から落ちる満月の光が銀色に輝かせていた。彼女の喜びはエスキルの様子を見て怒りに変わる。傷口を確かめ、鼻に皺をよせてグルルと牙を剥いた。さっ、と首を伸ばして村のほうを見る。

〝大丈夫だ。気にするな。こっちだ。さぁ、一緒に行こう。もうここには帰って来ない〟

 エスキルは視線と心でそう伝えながら、森を越えた先にあるあの草原を目指して歩き続けようとした。しかし、ダイアウルフは微動だにせず村のほうを見ている。その心の動きを察して、エスキルは思わず吠えた。それが合図であったかのように、ダイアウルフは飛び出す。

〝待て、やめろ。行くな。そちらは駄目だ。戻ってこい!〟

 ――ダイアウルフは矢のように夜の森を走った。茂みを飛び越え、木々をかわし、枝葉の影の下を音も無く、疾く。怒りと血への渇望に突き動かされて。

〈いとしきもの〉の傷口からはやつらのニオイがした。壁に囲まれた巣の中で暮らす弱きものども。牙の根に、舌の奥に、やわらかい肉と血の味が蘇る。もう一度あれを味わってやろう。思う存分に。もう遠慮することはない。やつらは〈いとしきもの〉の敵となった。あの芳醇な味わいの肉を喰らい、滋味に富んだ血を飲めば、〈いとしきもの〉の傷も癒えるはず。

 やつらのニオイが濃くなった。巣の入口が見える。もうすぐそこだ――その時、ダイアウルフは本能的に急制動をかけ、飛び退った。入口の前に立つ、白く幽玄な人影。夜空よりなお黒き髪、金色に光る二つの瞳、両手には細く鋭い刃。

 アレは逆らってはならぬものだ、とダイアウルフの本能がささやいた。しかし、怒りと血肉への渇望がそれを凌駕してしまった。

 なにをためらう。しょせんは弱きものどもの仲間。小さく、細い。畏れるな。あんなものでこの牙と爪を防げるものか!

 牙を剥き、低く唸りながら右へ左へと様子を窺っていたダイアウルフは地を這うように素早く接近し、右から襲いかかると見せかけて、さっと左へ飛び、地面を蹴って襲いかかった。一口で噛み砕けるはずの小さな頭を狙って。

「やめろぉぉぉ!」

〈いとしきもの〉の咆哮が聞こえて、世界が回転した。うずまく黒い髪、月光輝く白刃、わたしの身体、それから〈いとしきもの〉。いとし、き――。

 エスキルは半分人に戻りながら駆け寄り、草の上に落ちたダイアウルフの大きな頭をかき抱いた。溢れる涙もそのままに、嗚咽とともに肩を震わせながら、背後に立つエルフの女剣士に静かな怒りをぶつける。

「おれも殺せ……!」

「言ったはずです。人狼は殺さない。なぜなら――」

「なら、魔獣になってやる。これから村に行って人間どもを皆殺しにしてやる」

「そうしたいのなら、どうぞ」

「人間なんてどうでもいいか」エスキルは唾を吐いた。「お前はただ魔獣を殺したいだけだものな! いいことを教えてやる、アンサーラ。魔獣はこの世界で生きている。お前がいくら否定しようとも、否定したくとも、そこいらの狼や熊となんら変わらず生きているんだよ。魔獣を生かして人間を殺すのも、人間を生かして魔獣を殺すのも、命を選別するという意味では同じだ。お前は、お前の父親と同じ過ちを犯している!」

 暗闇の中で金色の瞳が硬直した。物音一つ立てなかった影が、がさり、と身動ぎする。

「図星だろう? 考えたことが無かったとは言わせんぞ。さぁ、殺せ。お前らには同じことだ。どっちだっていいんだろう!」

 アンサーラは息を呑み、それからゆっくりと踵を返した。フードを目深に下ろして金色の瞳を隠し、森の闇へと消えてゆく。

「待ってくれ、頼む、ひどいことを言って悪かった、行かないでくれ……この苦しみを終わりにしてくれ……うっ、ううっ……おれはどうしたら……」

 あとにはただ、人狼の嗚咽だけが残された。

〈第一〇話へつづく〉


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