はじめての東京のアルバイト
東京に出てきてはじめてのアルバイトは病院の清掃員だった。学費を工面するため地元でも同じアルバイトをしていたから経験者ではあった。しかし田舎の精神病院と都内の大病院では全く違う。とてもシステマチックで境界線のはっきりしていた印象が残っている。
例えば定時はきっちり守られていたし、やるべき作業内容以上の何かを求められたりもしない。朝はロッカールームで着替えて、昼は休憩室で食べて、夕方に遅番と交代して帰る。私は夜に大学へ通っていたから早番以外はやらない約束だった。
そこは有名人著名人なども入院する病院で、そうした患者のための病棟には当然アルバイトは入れない。しばらくは病状の軽い一般病棟を担当して、少し慣れてきた頃、重症患者のフロアに移動となった。前任者が辞めて、私が推された、ということらしかった。
最後かもしれない患者が移動するフロアというものは、どの病院にも暗黙のうちに存在する。看護師の詰め所が中央エレベーターの真ん前にあって、左右外側に個室が並び、内側にはトイレや洗面所や風呂などがあって、通路の奥はICUに接続していたと思う。個室の患者たちはほとんどが身動きせず言葉も発しない。自力でトイレに行くことなど無いのだった。全ての扉は基本的に開放されているので、見舞い人の独り言みたいな声や看護師たちの世間話は筒抜けというくらいに聞こえる。閉まっている部屋は言うまでも無く、そういうことだ。
ある時、いつもどおりの順序に従って洗面所に入ると一人の老人が立っていた。患者服で点滴スタンドを杖代わりに持ち、鏡を見ていた。自力で移動できる人などいないと思っていたから驚いた。患者の顔を覗き込んだりはしないから、以前からいるのか、今日ここに来たのかはわからない。
「失礼します。清掃です」お決まりのセリフを言って洗面台の掃除を始めてすぐにその老人は反応した。
「お兄さん、何か運動やってたの」
老人というものは若い男を見ると必ずそう聞くものなのだろうか。私の体格が良かったからか。はい、まぁ、色々と……などと短い会話をしてその日は別れた。
次に会った時は廊下で、誰も話さないから気味が悪いとか何とか言った。声はすっかり衰えていたし、微かに震えてもいたが、どこかきっぷの良さというか、ひょうきんさの欠片みたいなものが残っている。私も愛想良く振る舞ったと思う。
何度目か、洗面所で会った時に――私の清掃時間は決まっているので話し相手として待ち構えていたのではないかと今になって思う――彼は言った。「また海に出てぇなぁ」
「海、お好きなんですか」
「うん。おれ船長だからさ。漁船の船長やってたの。現役の時はもう海も船もこりごりだと思って船も売っちゃったんだけど、辞めてずっと経つとさ、不思議と懐かしくなるんだよね」
「仕事じゃなくて遊びで行ったらまた違うかもしれませんね」
「そうだよなぁ。売る前に遊びで乗り回したら良かった」
「船ってレンタルとかできないんですかね」
「知り合いに頼めば貸してくれるかもしれねぇ。退院したら聞いてみるかな」
「いいですね」私は笑顔でうなずいて、次の場所に移った。
フロアの清掃を終えてエレベーターまで戻った時、看護師に呼び止められた。「掃除の人」その目は怖いくらいで私は何かミスをしたかと焦った。手招きされて近くに寄る。彼女はささやくような小声で、しかし鋭く言った。
「患者さんの病状も知らないで適当なこと言わない!」
あっ、と私は自分がいるフロアがどこなのかを思い出した。あまりにも普通に話してくれるものだから近所のおじいさんといるような感覚になってしまっていた。すみません、と頭を下げた。次からは気を付けて、と彼女は仕事に戻った。
それからほどなくして私はそのアルバイトを辞めた。理由は色々あったような気もするが、その出来事が棘のように刺さっていたのは間違いない。だからこうして今も思い出すのである。