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ツイキャスやめます 補足

ツイキャスをやめた理由は、たかだかネット上のライブ配信サイトであるけれども、それが現在の社会情勢の縮図そのものであり、私にとって何とも気持ちの良くない場所だったからに他ならない。

自分でも良く分からないのだが、私は自由を制約されることと探し物が一番嫌なのだ。肉体的であれ精神的であれ、頭ごなしに命令されたり強制されたりすると、瞬間的に心が反発してしまう。何とも短気でほめられた癖ではないと自分でも思うのだが、「まあまあ・・・、そういうこともあるか。じゃあここは従いましょう・・・。」とは安易に受け容れられないのだ。

そういう意味で、今の社会(世界の在り様)自体が私にとって非常に気持ちの良くないものだということなのだが、現実社会では少なくとも上辺だけは取り繕って一見ジェントルな顔をして押し寄せてくるのだが、ツイキャスの場ではそんな配慮など一切なし。配信者もリスナーも何かの切っ掛けがあると、感情モロ出しで言葉の暴力をまき散らし始める。どちらかというとそういう切っ掛けを待ち望んでいるかのようだ。そして相手を数の力と声の大きさで威嚇・圧倒し、徹底的に潰すことに歪んだ喜びを得ている。そうすることできっと自分が強大な力を持った権力者になったと感じているのだろう。

情報の発信量は圧倒的に配信者が有利なのだから、議論の相手がチャットで文字を入力している間も、ひたすら大声で相手を罵倒する言葉を弾丸のように繰り出す。それは、これが21世紀の日本なのかと疑うような非文明的で野蛮な世界だ。そこには「〇〇だから〇〇だ。」というようなまともな議論の余地などない。合理的な説明など存在しない。全ては配信主の手前勝手な理屈だけがまかり通り、それに異を唱えると後は相手が「参りました。」と謝罪するまで、ひたすら嬲り倒す。

これだけ相手に罵詈雑言を浴びせられるのも、差し迫った身の危険が無いからだ。もしこれが実際の対面の場であればこうはならないだろう。相手がどのような反撃に出てくるかわからない。ここにイヤらしさがある。相手の反撃が及ばない圧倒的有利な自分の土俵上でひたすら暴言を浴びせ攻撃する配信主。親分を援護しようとひたすら相手を侮辱する下品なコメントを投げつける取り巻き達。そしてそれを批判することなくひたすら傍観している大多数の視聴者。歪んだ虐めの構造がそのままここにある。何とも悍ましい世界だ。

その悍ましさの根源がどこにあるかと言えば、「全体主義」になってきていることと、「カルト」的になってきているところだ。どちらも支配者側は個人の自由を認めず、あの手この手で支配・抑圧してくる。そして支配されている圧倒的多数の個人の側は自分が支配されていると気づきもせず、支配者に同調し、それに従わない者を異物として皆で寄ってたかって徹底的に潰しにかかる。

こんなデストピアのような世界に多くの人が集まること自体に、私は何とも形容しがたい恐ろしさを感じるのだ。皆ここが居心地の良い場所なのだろうか? 他に居場所(あるいは適当な配信ツール)が無いから、必ずしも心地良くはないが、仕方なく利用しているだけなのだろうか? 私にはどうもそうではないような感じがしている。 皆好んで集まってきているように思えるのだ。もちろん私のように嫌気が差して離れていく人も多いのだろうが、間違いなくそれは少数派だ。

好んで集まってきている人々は、自分だけは異物として虐めの対象になることなど無いと確信しているのだろうか? おそらくそうなのだろう。そのような人たちは、「現実を観察し自ら考える」ということを放棄して、力あるものに同調し、多数派の一員であることに安心を見出している、ある意味心穏やかな(おめでたい)羊の群れのように見えてしまう。今日と同じような平穏で楽しい時間がこの先も続くものだと思い込み、明日殺されて肉として処理されるなどとは間違っても思うことのない羊たちだ。

「現実を観察し自ら考える」ということを放棄してしまうということは、ある意味個人の主体性を放棄するということだ。ここ数年我々に甚大な影響を及ぼしているコロナやワクチン問題にしても然り、ヨーロッパにおけるロシアのウクライナへの軍事侵攻にしても然り、これら以前から起こっている地球温暖化問題にしても然り、私たちは「現実を観察し自ら考える」ということをしてきただろうか? 私の答えは「否」だ。世界中の多くの人々はマスメディアの発信する情報を真実だとして何の疑念も無く信用し、やれマスクだ、外食規制だ、行動規制だと個人的自由に対する制約を受け容れて来た。

一個人として受け容れることはそれぞれの自由な判断であり、私がとやかく言うことではない。問題なのはそれに従わない人々は「悪」だとして皆で寄ってたかって徹底的に潰しにかかることだ。俗にいう同調圧力だ。支配されている個人側が、あたかも支配者の代理人のように振る舞い、異端者を攻撃する。この社会的風潮こそが恐ろしい。かつての中世の「魔女狩り」や、先の太平洋戦争時の「非国民扱い」も同じ構造だ。いかに文明が進み時代が変化しても、結局同じような社会行動が繰り返されているということだ。これが私が「全体主義」的になってきているとして危惧する点である。

もう一つが、例えばコロナ問題一つ取り上げても、ここ数年でいろいろと科学的知見が積み重なって分かってきたことも多いのだが、当初の認識が間違っていたとしてもそれを修正・撤回しようとしない社会風潮があることだ。コロナ・ウィルスの感染方法が実はエアロ・ゾル感染だとわかってきて、マスクに何の予防・拡散防止効果が無いとわかってきても、今でもマスクをしないで人混みに出る者は「悪」だとされている。飲食店が感染の場では無かったにもかかわらず、相も変わらず対策として飲食規制が真っ先に行われている。その死亡率は従来のインフルエンザの死亡率よりも低いというデータが出てきたにもかかわらず、インフルエンザよりも恐ろしい疫病であるという認識で連日新聞やテレビのニュースとなっている。これらに関して合理的な説明を専門家と言われている人々から聞いたことは無い。

彼らの見立てが外れたことで個々の市民の一部も目を覚ますのではないかと思ったが、日本の場合、むしろ逆にコロナの恐怖・ワクチンの有用性信仰を強めている人も多い。これは心理学で言うところの一種の「認知的不協和」の状況ではないのだろうか? つまり、『自分の考えと行動が矛盾したときに感じる不安を解消するため、考えを変更することにより行動を正当化すること。』 (アメリカの心理学者レオン・フェスティンガー氏による定義)

具体的に言うと、『自分が騙されているということを認めてしまうと苦しみが生じるため、自分は騙されてなどいないと思い続けること。』 もう科学的事実などどうでもいいのだ。どんなデータが示されようとコロナはインフルエンザよりも恐ろしい疫病であり続けてもらわなくては困るのだ。これが私が現代社会が「カルト」的になってきているとして危惧する点である。

もうツイキャスがどうこうなど、どうでもいい話になってきた。

私たちが暮らしている現実社会そのものが「全体主義」的、「カルト」的になってきているわけで、それに気付いておられるだろうかという話なのである。

支配者側はそうと気取られないよう注意深く事を進めてきたとは思うが、ツイキャスに見られるようなあからさまな形ではないにしろ、現状は私のような人間でも矛盾を指摘できるほどその体裁を気にしなくなってきている。その理由がどこにあるのかなど私なんぞには分かるわけもないが、今の社会は(国内・国際共に)間違いなく個人の自由を制約する方向に向かっている。それは私が一番嫌うものなのだ。

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