物質世界観とクオリア世界観どっちも持つのが良さそう
最近まで自分の中では、「感情も精神も物質の動きの中の結果でしかない」という言葉を好んでいた。
この前、スタンスが異なるある友人と話したときも、この論を気持ちよく吐き出していた。
しかし、今日の仕事中にふと感じた。あれ、物質の動き、関係性の中に感情が生じるとして、その感覚の存在は物質空間で証明できなくない?と。
感情を例に挙げれば、喜びの感情を持つ際に起こっている脳活動は一対一対応的に定義できるかもしれないが、その喜びの感覚・クオリアは何も説明できていない。
感情だけじゃなくて、世界の認識像や概念という感覚も物質空間だけでは説明できなそうだ。
かといって、精神空間が全て、認識が全てだとしたら、こんなにも統一だった物理法則が発見される方が謎。
なんかよく分からんが、多分クオリア的世界観と物質的世界観のどちらかを棄却する必要は無いんじゃないかと感じる。
多分。人間も一生物に過ぎないのだから、どちらの世界系も不完全で、でも、どちらの系も重ね合わせた世界に身を置いているのだろう。そんな気がした。
この話題は、過去の偉人、今の頭のいい人たちがめちゃくちゃ考えてきたことに違いないから、とりあえず自分にフィットする捉え方だけ緩く持っとけばよさそう。
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そういえば、前に書いたこの記事では、時間が動く中でしか精神の感覚が生じないことを不思議がっていたが、クオリア系の眼鏡を持てば腑に落ちるかも。
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