独り言~日本の安全保障とか憲法九条とか~

注記

これは昔とある身内だけの機関誌に投稿した文章です。なんか憂国の志士気取ってる感じがしていたいですねこれは…今の自己批判を加えることもできそうだけどめんどくさいからねしょうがないね…とりあえず大学生になったばかり俺が当時書いたのオ〇ニー文章ですこれは。

はじめに
 今回初めてコラムに投稿させて頂く。はじめに断っておきたいのがこのコラムはまさに題名にある通り、独り言と何ら変わらないただの自慰行為である。野獣先輩○○説のアナグラム並のガバガバクソ理論をただただ垂れ流すという奇行をどうか許してほしい。その上でこんなF欄糞大学に通っている頭の中パッパラパーの人間かどうか怪しいラインの人がひねり出した糞を読みたいという酔狂な方はこのまま読み進めていただきたい。
 なぜ今回こんな事を書いたかと言うと普段私はそこら辺のおっちゃんや主婦よりは政治や社会情勢に興味があるつもりではある。その上で考えた物事を吐露したいというのが理由である。私はこの国が好きである。この国がどんなに理不尽であってもどんなに貧乏だったとしてもだ。なぜなら2000年に渡る祖先たちが私たちに血を流し、汗を流し、耐え難きを耐えて残してくれた国だからだ。ときには正しいとは言えない行いをしたかもしれない。でもそれは日本をこの国を思ってやったことだと私は信じている。その結果私たちは豊かで平和なこの国に暮らしているのである。先祖たち一人ひとりが様々な苦労をして残してくれた宝なのだ。だから私たちは私達の子孫に同じように泥をすすってでもこの国をより良くした上で引き継ぐ努力をなさなくてはならないのだ。そのための不断の努力をしなければならないし、その義務があると感じている。だからバカなりにもこの国をいかにより良くするかの方策を常に考えるべきなのである。そして私はバカなりに様々なことを考えている。前時代的で愚かな発想かも知れないが、私はこの信念は間違っていないと思っている。だから今から書くようなことを考えているそれをここに記すというのが理由だ。
 第1章 憲法9条の破壊
10月22日に衆議院選挙が行われたが今回の選挙において憲法改正は大きく取り上げられた。戦後初めて憲法改正の動きが現実味を帯びて、2010年代という時代は大きな意味を持ち日本の変革が見える。しかし、この論争自体がこの時代に話し合われること自体がそもそもおかしいのである。本来この論争は警察予備隊が結成された1952年に終わっているべき話なのである。国家の基盤たる国防の是非が戦後70年間放置され続けると言うのは日本という国いかに未熟な国家であるかを如実に表しているとしか思えない。我々日本人は経済発展にばかり注力し国家の基盤たる国防に目を背け本質的な国防論の議論を放置し続け今に至っているのである。
さて、今一度憲法9条の条文を冷静に振り返って見よう。

第九条 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

(有斐閣出版 ポケット六法平成二九年度版より)
 赤字の部分に注目していただきたい。これをそのまま解釈すれば日本は軍事力を保持しないし、国は交戦権を持っていないということになるはずである。しかし、実情として日本は陸海空自衛隊を保持している。自衛隊は戦車も戦闘機も軍艦も保有している。これをどう好意的解釈したとしても軍隊であることは明白である。この論争は警察予備隊の創設時から議論されている。そこでこの論争に対する政府見解を見てみたいと思う。

政府見解は憲法9条第2項は「戦力」の保持を禁止しているという解釈のもと、これは自衛のための必要最小限度の実力を保持することを禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨である
(1957年(昭和32年)4月24日、参議院予算委員会における岸信介内閣総理大臣答弁)

 これ以外にも防衛省HP等政府の自衛隊に関する位置づけはかなり詳細に解説されているのでそちらを参照されたい。この政府解釈を要約すると「じえいたいは戦力じゃなくてひつようさいていげんのじつりょくだからせーふ」という少なくとも私に取っては意味不明な解釈である。必要最低限の実力とは一体何であるか全く不明瞭である。周辺諸国との相対的云々という解釈も存在するが、拡大解釈しようと思えば北朝鮮や中国、ロシア、アメリカなど日本の周辺は核保有国ばかりである。ならば相対的な日本の自衛のための実力は核保有とすら解釈できてしまうのではないかと私は疑問に感じるのである。

(注記:当時私は知らなかったが戦術核程度であれば最低限度の実力の範疇に入ると考えていた時期もあるようだ。加えて法的な観点からは日本の核武装は98条の国際法順守、つまりNPTとの整合性問題からのNPT脱退と9条の解釈によって核武装は法的に可能になる。)

1978年(昭和53年)3月11日、福田赳夫内閣総理大臣は参議院予算委員会で次のように述べた。「たとえば万一核不拡散条約(NPT)、これを日本が脱退をするということになった場合には、条約上の遵守義務というものはありませんから、先ほど申し上げましたような間接的意味における憲法に由来する九十八条の問題というものは消えちゃうんです。第九条の問題だけが残るということなんです。憲法全体の思想といたしましては、私は、第九条だと思うのです。第九条によって、わが国は専守防衛的意味における核兵器はこれを持てる。ただ、別の法理によりまして、また別の政策によりまして、そういうふうになっておらぬというだけのことである。」 

このような実情に合わせるための解釈は詭弁にしか聞こえない。こんなものが通るならば昨今話題になっている安保法制も通るだろう。
 しかし、国民の一般的な解釈は自衛隊は必要である。その一方で憲法9条は変えないほうが良い。というのが一般的な流れだろう。これは矛盾していないだろうか。国民のこの発想こそが立憲政治を蔑ろにしているとしか私には思えてならない。個人的な意見としてはまず、憲法9条を改正しないのであれば自衛隊を解体するべきだと考える。自衛隊が必要であると考えるのであれば憲法改正をする。これが筋ではないだろうか。
 だが残念なことに日本国民はこの矛盾に対して問題意識すら持っていない。実際の世論はどうなのか以下の調査を見ていただきたい。

(出典 https://sirabee.com/2015/07/28/42373/)
出典自体がインターネットサイトであるので、信憑性に疑問符がつくが概ね私の普段感じる憲法9条に対する周辺の雰囲気と合致する。現状自衛隊が憲法9条違反ではないと考えているのが実情だろう。(まずこの質問項目を見つけるのに苦労したのでおそらく聞く必要性が低いくらい自衛隊の合憲性についてはある程度の国民間の意見の一致があるのだろう)
 次に興味深いこのデータを見ていただきたい。

憲法学者に対して行われた調査である。おおよそ65%が自衛隊は違憲ないし違憲の可能性があると考えているのである。国民の認識とは全く異なる憲法学者の反応である。一般の方がこのデータを見ればこれは意外だと感じるかもしれない。だが私に言わせてみればこんなこと当たり前であると感じている。憲法9条の条文解釈小学生に解説してみて分かる訳がない。多分大人もわかっていないだろう。「せんせーひつようさいていげんのじつりょくってなんですか~?」このように聞かれることになるだろう。しかし、この問に答えることのできる人は殆どいないだろう。私は答えることができない。このような解釈による改憲は憲法の破壊と同義である。
2章 自衛隊という欠陥
 うるせえ現状うまく行ってるから細かいことはいいじゃねえかエビフライぶつけんぞと思う方もいらっしゃるかもしれない。だがこの自衛隊というグレーゾーンは日本の安全保障にとって大きな欠点を晒し続けている。具体的にはナンセンスな自衛隊の法整備だ。自衛隊法はポジティブリスト方式(根拠規定)という法整備の仕方がなされている。ポジティブリスト方式は「これこれはやって良い」というやり方で逆を言えばそれ以外の行為は禁止されていることと同義である。しかし、この方式では法整備しないと不測の事態に対処できないという致命的な欠陥がある。軍事的な衝突等は予測不能の自体に陥る可能性が大であり、それをいちいち予測するということは不可能である。更に日本の法整備を研究し、自衛隊が対処できない手段で武力行使を相手国が行った場合戦わずして自衛隊は無力化されてしまうのである。更にはPKO等で自衛隊を海外派遣するのにもかかわらずこの方式を使い続ければ現場にこの欠陥を押し付けてしまう事態がいつか起こりうることになるだろう。
 そもそもこのポジティブリスト方式は警察機関を始めとした司法機関のための方式である。国民が相互に国内法を遵守するという前提の上で警察機関等の執行能力を規定するのは有効である。しかし、自衛隊が相手するのは国内法を遵守する国民ではない。諸外国の軍隊ないし武装組織なのである。もちろん国際法や各国間の条約が存在するがそんなものを国内法と同等に尊守しているかと問われれば答えはノーである。そんななかで 軍事組織たる自衛隊の行動の自由を奪うことはおかしい。ならばなぜ自衛隊はこのポジティブ方式を使っているかと言われればそれは自衛隊が軍隊ではないからである。本来軍隊の使う「これこれとこれは行って良い」というネガティブリスト(禁止事項)は軍隊が使用するものである。ここで自衛隊の位置づけが響いてきているのである。更にこの欠陥は自衛隊という組織の行動の自由を縛り、逆に行動の自由がある敵対勢力との対峙を生み出す。現状日本の自衛隊はこのような状況下で、中国やロシアといった軍事大国から日本を守るための“実力”を持っているのだろうか。この他にも様々な自衛隊の位置づけの曖昧さから来る欠陥は数多く存在する。憲法9条の都合のいい解釈によって私たちはこの欠陥を自衛官と日本に強いてきたのである。
第3章 日本人の戦争観
 さて、ここまでは自衛隊の合憲性云々を書いてきたがここからはなぜこのような問題を我々日本人は放置してしまったのかを考えてみたい。
 日本は先の太平洋戦争(大東亜戦争)で手痛い敗北を喫した。このことから日本人は戦争アレルギーというものを持ったと言っても良いだろう。だが、この日本人の想定している戦争は「侵略戦争」なのである。常に日本人の想定する戦争と言うのは侵略戦争が想定されているのだ。このことには理由がある。明治維新以来日本が経験した戦争はすべてが侵略戦争であったからである。ここに日本が明治以来経験した戦争を年表にして振り返ってみたい。
1894年 日清戦争
1900年 義和団事件に伴い出兵
1904年 日露戦争
1914年 第一次世界大戦・シベリア出兵
1931年 満州事変
1937年 支那事変
1941年 太平洋戦争(大東亜戦争)
これらの戦争において日本は常に本土において戦争経験をほぼしていないのである。唯一例外の事例として沖縄本土戦だけだ。このことから日本における戦争というのは常に日本が諸外国に対して出かけていって戦争をするというイメージが固定化されている。だから再軍備や憲法9条改正論争が起きると日本が悪者として他国へ侵略するための準備として捉え、再軍備=侵略戦争という飛躍した感覚からこの手の日本の安全保障の問題を議論せず思考停止のまま拒否してしまうのである。しかし、戦争というのは常に日本から仕掛けるから起こるものではない。日本がいくら平和を希求したところで、平和が維持されるわけではないのである。これまで日本が平和であったのは日本が戦争をしなかったからではなく日米安保体制のもと日本に戦争を仕掛けるメリットをデメリットが越えていたから戦争は起きていなかっただけなのである。しかし、昨今の情勢を鑑みるに中国のアメリカ覇権への挑戦は顕著である。極東の橋頭堡であり、太平洋の橋頭堡でもある日本の戦略的な価値は我々日本人が思っている以上の価値がある。この中国の挑戦の最初のターゲットは日本になることは明白であるのだ。明治以来日本は初めて自分が侵略されるという危険が存在しているのである。
 「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」
この言葉はラテン語の警句である。正にこの言葉の通り平和は無償のものではないのである。日本は果たして戦の備えはできているだろうか。
第4章 現在の日本の政治と日本人
 これまでは日本の安全保障体制について語って来た。まだ書きたいことは山ほど存在するが私の睡魔と時間の関係上ここまでとして次の機会に触れることにする。
 ここでは私の現在の日本の政治への感想を述べる。現在日本の政治は戦後どころか憲政史上最長になる可能性も出てきた安倍政権によって運営されている。それを支える自民党は両議会において圧倒的多数を占めている。更には10月22日に行われた衆議院選挙によって希望の党や維新の会など野党にも保守勢力が台頭し始めた。その一方共産党は議席を減らし、民進党は分裂し醜態を晒した。立憲民主党の躍進と言ってもかつて民主党であったころの政権を担うような勢いは到底見えてこない。
 私は消極的に自民党と安倍政権を支持している。しかし、この現状を全く喜べていない。政権を批判し常にプレッシャーを掛け続けるべきである野党は完全に死んでいるからである。

政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の時代のことを考える。


ジェームズ・クラークの言葉である。今、国会にいる議員のその殆どがこの言葉に照らし合わせれば政治屋と化している。本気で日本のために思い志を持ち国会にいる議員は一体何人いるだろうか。国会を見ているとそれが如実に現れている。例えば森友・家計学園問題である。確かにこの問題は審議するべき問題なのかもしれない。だが果たしてこの問題は山積する日本の問題と比較して半年の歳月を掛けて解決するべき問題なのだろうか。年金問題・財政改善・安全保障・憲法・経済これらの問題と比してそこまで重要な問題であるとは私は到底考えられない。ではなぜこのような状態になってしまっているのか。それは野党は日本をより良くするための政策批判ではなく、安倍政権や自民党を攻撃するための手段として利用してしまっているからだ。
 このようなことを始めとした政治の停滞は誰の責任だろうか。無論その責任はそんな政治家を選んで国会に送り出した我々国民にあるのだ。そもそも今日本の投票率は下がりつつある。第48回衆院選の投票率は53.60%に留まっており戦後下から2番目の投票率である。特に世代別に見れば20代の投票率はかなり低い。

(こちらは衆議院ではなく参議院の投票率であることに注意)
この投票率の低さこそが現状日本の反映であろう。政治的な無関心は政治の質を下げてしまう。ではなぜここまで政治に関する興味が薄れているのだろうか。それは日本の教育にあると私は考えている。私はこれまで小中は公立、高大は私立に通ってきたが、政治に限らず何か物事について議論するある特定の問題に関して考えるということを教育として経験した覚えがない。学校において何か真剣にものを考え意見を交わし、行動するということを行わないのだ。なのにいきなり18歳から選挙権を与え政治に関して判断しろと言うのは酷であろう。何も判断材料や考え方のプロセスすら与えなければ政治について興味を持てというほうが難しい。これでは日本の民主主義は機能しない。だから積極的な議論をこれから教育の場に導入していくべきなのである。よく日本人は議論が苦手であるとされることが多いが日本人に足りていないのは熟議である。熟議とは他者の意見に耳を傾けながら自らの立場を修正しようとする態度を持って議論することである。この熟議を学校教育の場で醸成する。そしてより良い判断のできる有権者を育てなくてはならない。民主主義が必要とするのは熟議なのである。

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